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20世紀美術の革命家ヨーゼフ・ボイスと社会彫刻


これまでこのブログでは現代美術史の運動をおおまかに紹介してきましたが、これからはそれらに加えミクロな視点でアーティストや作品を紹介していきたいと思います。


今回はドイツの芸術家ヨーゼフ・ボイスを紹介します。


彼はアーティストでありながら、教育者や社会活動家という顔を持ち、レクチャー、対話集会、パフォーマンスなどを通し政治経済や環境問題について積極的に介入しました。


彼の有名な作品「私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」(1974)は、ボイス自身がアメリカのニューヨークにある画廊の中で、1周間コヨーテと暮らし、実際のアメリカ人とは接触しないというパフォーマンスです。


コヨーテはアメリカ先住民の間では神聖視されており、後に白人によって迫害されました。そのコヨーテをアメリカの真の姿と捉え、コヨーテとのみコミュニケーションをとろうとしたこのアクションは、先住民やその文化を排除し発展してきた現代のアメリカ社会を暗に批判したものでした。


このように社会に対して疑問を投げかけ挑発するようなスタイルが彼のアートには特徴的です。

熱と彫刻

また、彼の芸術にとって変化や生命を意味する熱は重要な要素です。彼にとって熱は社会の変化をもたらすものでした。


従来の彫刻では石や金属、木材といった無機物を使いモデルの形を永遠にとどめようとします。しかし、無機物から作られるそれらの彫刻には生命の証拠である熱エネルギーがありません


それゆえに彼は熱によって形が変化したり、熱を保持する機能がある素材を好んで用いました


たとえば、「グランドピアノのための等質浸潤」(1966)ではフェルトが彫刻の素材として使われています。


「脂肪の椅子」(1963)では蜜蝋が使われています。


私は、熱(冷)が超空間的な彫像原理であることに気づいたのです。それはかたちを変えることによって、拡張にも収縮にも、融解にも結晶化にも、カオスにも形成にも対応するのですから

社会に伝導する熱

そんな彼の彫像理論は芸術の領域を飛び出し社会活動に発展していきます。



「私たちが生きるこの世界を、どのように形成し、現実化するか。それは、進化するプロセスとしての彫刻なのです。人間はみなこれをつくる芸術家なのです。


彼にとっては人間が未来の世界や社会を創造性によって造形していく「社会彫刻」こそが未来の芸術のかたちでした。そして、その自覚を持ち行動する人は「誰もが芸術家」であると説きました。


人びとを社会を変革する個人として捉えた彼は大規模なプロジェクト「7000本の樫の木」(1982)を開始します。


このプロジェクトは樫の木をカッセル市内に植樹するもので、それぞれの樫の木の根本には玄武岩が一緒に埋められました。成長する樫の木は生を、形を変えない玄武岩は死を象徴しています。彼はこのふたつの要素が存在することで世界は構築されていることを暗示したのです。


ヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」というアイデアは世界中で行われているアート・プロジェクトの基礎的な考えとなっています。アートで世界を変革しようとした彼の信念は今でもそうやって引き継がれているんですね。



地球がキャンバス!?ロバート・スミッソンのスパイラルジェティ



ユタ州のグレートソルト湖にある渦巻き状の堤防。実はこれはただの堤防ではなくてアート作品なんです!


ロバート・スミッソンの代表的作品「スパイラルジェティ」(1970)はランド・アートという岩、土、木、鉄などの自然の素材を使って大地に展開されるアートジャンルに属します。


今回は「スパイラルジェティ」をサイトとエントロピーという概念から読み解いていきます

サイトスペシフィックなアート

まずサイトという概念について。サイトというのは特定の野外に置かれた作品のことを指します。


サイトのポイントはアート作品がある特定の場所に大きく依存するということです。


たとえば、「スパイラルジェティ」のあるユタ州グレートソルト湖は潮の満引きで水位が変わるのですが、作品製作時は記録的に水位が低かったため、「スパイラルジェティ」は数年に一度のタイミングでしか湖面にあらわれないそうです。


そしてグレートソルト湖は名前の通り塩分濃度が海水より高いという特徴も持っています。そのため塩湖特有のバクテリアが水面を赤く染めるとともに、徐々に作品が分解されていきます。


これらの効果は偶然ではなく、全てアーティストによって計画されています。つまり、「スパイラルジェティ」はグレートソルト湖じゃないと成立しないアート作品なんですねー。

衰退しゆく運動エントロピー

また、芸術作成に関してロバート・スミッソンはエントロピーという概念にこだわりを持っていました。


エントロピーは外界とのやりとりの無い閉鎖されたシステムの中ではすべてのものは徐々に衰退していくという概念です。


たとえばバナナをほったらかしにしてたらどんどん黒くなっていきます。黒くなり始めたら黒くなる一方でいきなりフレッシュなバナナに戻るということはありえません。これもエントロピーの現れだと言えます。


「スパイラルジェティ」の始まりと終わりを融合する渦巻き形や、微生物により分解され水没していく設定はロバート・スミッソンによるエントロピーの究極の表現なのです。




個人的には赤い海と渦巻き模様の組み合わせが原始的な世界を彷彿とさせて神秘的だなぁと思います。


1970年に制作されたこの作品。今でも見ることができます。詳細はRobert Smithson, Spiral Jettyよりどうぞ










表現の終着点としてのミニマリズム



ドナルド・ジャッドの「無題」(1972)というこの作品。内側が赤い鉄の箱、以上!それ以上でも以下でもねぇっていう潔よさ。


それがミニマリズムの本質だったりします。


ミニマリズムは1960年から1975年あたりまでアメリカで盛んになった美術運動です。抽象表現主義の感情表現やポップアートの世俗的な表現とは対照的で、ストイックに作品からひたすら要素を取り除きまくったシンプルな作品が特徴的です。


今回はそんなミニマリズムについて。

全てを取り払ったら物質だけが残った


伝統的な彫刻は木や鉄などの素材を使い何かの形を模倣するものでした。


しかし、ミニマルアーティストはこう考えます。もし彫刻家が木や鉄か何かを作るのなら、それは木や鉄から作られたもの以上でも以下でもない。


オブジェは何かの形を真似る必要もないし、アーティストの感情や思想が入る必要もない。そして、アーティストが作る必要もない。


なので、鉄の箱を誰かに作らせて美術館に置いてもらうっていう手法をとったりします。もはやアーティストはただ制作を計画し、制作を発注し、見守るだけっていうスタンス!


その狙いは表現や感情、主題など、製作者の影をアート作品から取り除くこと。


現にドナルド・ジャッドの作品は大体「無題」です。


そのことにより鑑賞者は製作者の意図に惑わされることなく、純粋に目の前のオブジェを観察することができます


ここまできたら好きか嫌いかっていう個人の判断基準だけが正義です。


そういう意味ではミニマリズムって一番わかりやすいアートだったりするんです。


「意味はありません。目の前にある物質が全て!あるがままを見てくれ!」っていうミニマリズムはとても単純明快

イズムの終了

でも、ここまでくるとなんでも芸術になるやんっていうツッコミが入りそうです。


たとえば、空のティッシュ箱に適当に「無題」っていうタイトルつけて美術館においたらそれはアートなんでしょうか??そこにはなんの意図もありません。ティッシュ箱をただ見てくれ!っていう話です。


さすがにここまで行くとやり過ぎですw


つまり、ミニマリズムは芸術が芸術でなくなるギリギリのライン上での表現なんです


ミニマリズムによってもたらされた「これ以上行くとアートは終わってしまう」という地点で現代美術におけるモダニズムは終わりを迎えます。


そして1970年代以降、イズム(主義)という美術運動も影を潜め、様々なアーティストが主義に縛られず独自の方法でアートを制作していくアート戦国時代的な時代に突入します。


それが今です!


そういう意味では、ミニマリズムが100年にわたり展開された「アートにおける表現の追求」という旅のゴールだったと言えます。


表現することを極めたら表現しないことに行き着くっていう。もはや悟りの境涯ですねw









アートの大量生産!ウォーホルのファクトリーとポップアート



20世紀を代表するハリウッドスター、マリリン・モンローのイメージがひたすら繰り返されるアンディー・ウォーホールの「マリリン」(1967)はポップアートの代名詞的作品です。


そしてポップアートは現代アートの代表的芸術運動。そんなポップアートに今回は着目します。

ポップアートとは

ポップアートはだいたい1956年から1970年の間アメリカで流行ったアートスタイルで、主題として大衆社会や消費社会を扱っているのが特徴です。


その根本的な思想はアンディー・ウォーホールの以下の言葉に集約されています。


ポップアートはあらゆるひとに開かれている。アートが選ばれた少数者のためだけにあるべきだとは思わない


この言葉の背景にはあらゆるひとに開かれていなかった抽象表現主義の存在がありました。


ポップアート以前のアメリカではポロックやロスコの抽象表現主義が隆盛を極めていました。彼らは内面的な感情を抽象的にキャンバスに描きます。



しかし、抽象表現主義の構図の中心がないオールオーバーな画面構成や抽象的な表現はアートを難解なものにして、一般大衆とアートの世界の間に壁を作ってしまう一面もありました。


そんな抽象表現主義に対してあまりに内向的すぎると批判したのがポップアートでした。


ポップアートからすると芸術は個人的な感情などを表すものではなくて、もっと表面的でみんなが共有するイメージを提供するものでした。


そのため、ポップアートの芸術家たちはポスターや写真、漫画など一般の人に馴染みのあるメディアからイメージを切り出し大衆文化の象徴としてアートの形で表現します。


ポップアートは俗っぽいポピュラーカルチャーと高尚なアートという相容れないものを両立させ、美術と生活のボーダーラインを取り払ったのです。

アンディー・ウォーホールとファクトリー

ポップアートのスーパースターといえばアンディー・ウォーホールです。


彼は元々商業画家でイラストレーションを作成していたのですが、32歳のときにファインアートの世界に移り、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を制作していきます。


彼はアート作品を工場で大量生産するかのように制作していくことから自分のスタジオを「ザ・ファクトリー」と呼び、アート・ワーカーと呼ばれるスタッフを雇って機械的に作品を量産していきます


そんな彼の狙いはアーティストとアートを切り離すことでした。あえて彼自身の手を加えないでアートを制作することでアートからアーティストの影を消し去ったのです。


一方、抽象表現主義では画家の内面的な感情が絵画で表現されており、アートとその作成者であるアーティストは切っても切り離せない関係でした。


しかし、それはアーティストの内面にアートの真の意味が隠されているということであり、アートを理解できない大衆と理解できるアーティストとその仲間たちといったふうに境界線を両者の間に引いてしまうものでもありました。


その点でファクトリーによる大量生産はその二つの境界線を曖昧にしてしまう画期的な取り組みだったのです。


アンディ・ウォーホルのすべてについて知りたければ、表面だけを見ればいい。


アンディ・ウォーホルのこの言葉の通り、彼の作品こそがアンディ・ウォーホルの全てあって、そこに隠された意味なんてありません。アートからアーティストの感情や思想は全て取っ払われているからです


そうやって出来上がったアートはアーティストの所有物ではなく、みんなのものとなります。まるで大量生産されたコカ・コーラが多くの人に愛されるように。


「全ての人に開かれたアートを」というポップアートの考えを彼は大衆イメージの大量生産という方法でクールに体現したのです。


そんなウォーホルの作品は通販なんかで安く手に入るので部屋のアクセントとして飾ってみてはどうでしょうか。美術館にいかなくてもアートを気軽に楽しめます。それがポップアートです。












アートを全ての人に届けるために!ポップでシンプルなキース・ヘリングの手法



力強くて太い線。鮮やかな配色。そしてなにより、個性豊かなキャラクターたち。きっとユニクロとかで見たことある人も多いはず!1980年代アメリカの代表的ポップアーティスト、キース・ヘリングの作品です。


彼はぼくが尊敬するアーティストでもあり、いろいろ書きたいことはあるのですが今回は彼のアートに対する考え方と、その考え方がどのように作品に反映されているのかを伝えます。


Art is for everybody

彼のメッセージはシンプルです。それはArt is for everybody。


アートってのは全ての人にオープンであるべき。人びとが理解できないアートを作り上げて、優越感に浸ろうとするアーティストなんてナンセンスだ。」と彼は自分の日記に書きました。


彼の活躍した当時のアメリカではミニマル・アートが流行っていました。たとえば、アルミニウム製の箱が等間隔に並べてあるだけの作品だったり。彼はきっとそのようなアートシーンを批判的な目で見ていたのでしょう。


抽象絵画やミニマル・アートなど複雑で難解になっていくアートの世界は普通の人々には閉ざされ隔離された世界でした。


しかし、彼はアートと普通の人びとの関係をこのように綴っています。


「ある意味、鑑賞者自身がアーティストだと言える。なぜなら、彼らは自分たちの方法でアートの意味を解釈し新たな価値を作り出すことができるから。アートの世界で中心となるのは芸術機関ではなくて個人なんだ。」


彼のArt is for everybodyという主張は彼の生き方やアート活動に一貫している重要なアイデアです。

誰でもわかるアートを

この信条を胸にキース・ヘリングは独自のスタイルを編み出していきます。


彼が目指したのは言語も、人種も、時間も超えて人びとに届く普遍的なイメージ。彼は原始美術にそのヒントを見つけました。


原始美術っていうのはこういう先史時代の壁画だったりを指します。先史時代にシンプルな形で表現された人や動物は現代のぼくたちでも理解することが出来ます。シンプルさは普遍性を生み出します


キース・ヘリングは普遍的な原始美術のパターンを現代に再現しなおすことで誰もが理解できるアートスタイルを実現しました


キース・ヘリングの作品は今でも世界中の人に愛されています。それは彼のアートに対する信念とわかりやすいアートスタイルの賜物なのだと思います。








アイデアの芸術 コンセプチュアル・アートとは?




ジョセフ・コスースによる「1つと3つの椅子」(1965)というタイトルのこの作品。左に椅子の写真、真ん中に椅子、右に椅子の辞書による定義が配置されています。


ここで、写真は2次元的な記号として、実物の椅子は3次元的な記号として、定義は文字記号としてそれぞれ椅子を指しています。


「写真と定義文が記号だというのはわかるけれど、実物の椅子は椅子そのものじゃん」と思うかもしれません。ここで3次元の椅子はオブジェ化されているのです。


どういう意味かというと、椅子って座るものですよね。座れない椅子はもはや本質的な意味で椅子ではありません。展示されている椅子は座る目的でそこに置かれていません。つまりそれは椅子というより、単に木材でできたオブジェであるということです。


この3つの記号を提示することで、椅子という1つの概念に対する問いかけをするのがこの作品のコンセプトです。


このように、色とか形よりもコンセプトやアイデアがメインとなる作品をコンセプチュアル・アートと言います。コンセプトやアイデアに意味があり、制作や作品そのものに意味はないというスタンスをとっています。

日本の世界に名だたるコンセプチュアル・アーティスト


日本人のコンセプチュアル・アーティストで有名なのはオノ・ヨーコです。


彼女のコンセプチュアル・アートの一つ「地球」では「地球が自転する音を聴くこと。」という一文がもはや作品です。


彼女の芸術のコンセプトは観客から行動や想像を引き出しふだん認識することのない感覚に向き合わせるといったものでした。そこが重要であり手段は意味を持ちません。


ここまで来るとなんでも芸術になりますねw


アートって何なんでしょうか?





ミニマリズムのその先へ



等間隔に壁に取り付けられた空洞の箱。この作品はミニマル・アートの代表的アーティストドナルド・ジャッドによるスタックと呼ばれるシリーズの一つです。


この作品のおもしろいところ、それはジャッド自身は作品のプランだけ作って実際の箱は職人に作らせるという手法を取ったことです。もはや技術はいらずアイデアさえあれば芸術が作れるってことですね。


じゃあ、この作品の背後のアイデアとはどういうものでしょうか。

最小限のアート


皆さんはミニマリズムという言葉を聞いたことがありますか。日本語だと最小限主義。美術・建築・音楽などの分野で、形態や色彩を最小限度まで突き詰めようとした一連の創作手法です。


そのような手法で作られた作品は、美術の分野だとミニマル・アート、建築だとミニマル・アーキテクチャー、音楽だとミニマル・ミュージックと呼ばれます。


芸術分野でミニマリズムが受け入れられた背景には当時のモダンアートの傾向があります。抽象絵画などに見られるようにモダンアートでは、絵画からリアルさを表現するための遠近法や暗明法などの技術や物語などの文学的要素が排除されていきました。


つまり、現実に依らない絵画の純粋性が追求されてきたということです。その方向性を3次元にさらに突き詰めて無駄なものを一切排除し、形態や色彩などの要素を最小限にしたアートがミニマル・アートです。


ミニマル・アートでは作品に素材に手を加えたという痕跡や意味すら削ぎ落とされ、反復性、対称性、連続性といったものがただ無機質に強調されます。


ミニマルの向こう側

シンプル・イズ・ベストと言いますが、個人的にはミニマル・アートはシンプル過ぎてつまんないっていう側面もあると思います。それに考え方がストイックすぎて窮屈に感じます。それでもミニマル・アートは近代アートに大きな影響を与えたという点で大事です。


この後ミニマル・アートに反発してニューペインティングと呼ばれる作品が出てきます。


ニューペインティングでは現実世界にある感情や欲望などのストレートなイメージが特徴で、国の歴史、神話、宗教、性、暴力などを主題として具象的な荒々しいタッチで描かれます。個人的にニューペインティング大好きなのでまた個別に記事を書こうと思います。


また、ミニマル・アートのアイデアこそ大事であるという部分から、コンセプチュアルアートが生まれたり、周りの空間も含めてアートであるという考えからインスタレーションが生まれたり、ミニマル・アートはどんどん派生していきます。


最近、ミニマリズムの考え方がフラットデザインや断捨離、iPhoneを初めとして様々場所で取り入れられてますが、なんとなく手詰まりな感じもします。ミニマルからの転換が今必要とされているのではないでしょうか。





漫画の一コマが持つ表現力に迫る


漫画のような吹き出しとデフォルメされ描かれた女性。


ロイ・リキテンシュタインは漫画の一コマをモチーフにした作品が有名なポップアートの代表的な画家です。


彼の絵を見るとそもそも漫画の一コマがアートになるのかっていう素朴な疑問が湧いてきますね。たとえばワンピースの一コマがアートになるのかっていう話です。


ポップアートの視点から


この作品をアートたらしめているのがポップアートの考え方です。ポップアートは1960年代のアメリカで盛んとなった大量生産・大量消費社会をテーマにした現代美術の芸術運動です。


現代人である我々は日常的に大量の広告や製品に囲まれて生きています。そのようなマスメディアから送り出される情報記号こそが、山や海などに代わる現代のランドスケープであるという視点がポップアートにはあります。


この視点から、リキテンシュタインは漫画の一コマを作品のモチーフに採用しました。彼は漫画の平面的な表現法が絵画よりも強いインパクトや表現力を持っていると感じたそうです。


漫画の一コマには悲しみや戸惑いなど現代のリアリティが記号化されて詰め込まれています。


リアリティの記号化というこというのがわかりにくいかもしれません。たとえば漫画の吹き出しは人物が発している言葉と結び付けられます。現実には話していて吹き出しなんて出てこないですよね。そもそも漫画で描かれている絵も線の集まり、つまり記号です。ぼくたちの身体に黒い縁はありません。


彼はこのような平面的な表現を極端に強調することで、漫画で描かれる感情をさらに増幅しようとしました。


リキテンシュタインの絵の特徴


上の画像を見てください。これは彼の作品と元ネタの比較画像です。全体的にドラマチックになっていて感情が強調されています。


じゃあ具体的にどのように平面的表現が強調されているのでしょうか?元ネタと彼の絵、どこが違うかわかりますか?


まず、気付くのが色の違い!リキテンシュタインは色を赤青黄の三原色に単純化しています。ベタ塗りでグラデーションがありません

また、線がはっきりとしていることも挙げられます。髪の毛など黒くて太い線でしっかり描かれているのがわかります。

さらに、彼の絵の最大の特徴でもあるのですが、よく見ると印刷物のようなアミ点が描かれています。


これら全ての要素が漫画の平面性を強調しており、一度見たら忘れられないインパクトと表現力を可能にしています。



ということで、まとめると思想や工夫次第で漫画の一コマもアートになるってことですね。いつかあの漫画の名場面を美術館で見ることになるかも!




ちなみに比較画像はここから取ってきました。さらにたくさん比較画像があるので興味のある人はぜひ。







芸術家と狂人は紙一重。最高にクレイジーなアウトサイダー・アーティスト



この不気味な絵はアウトサイダー・アーティスト、ゾンネンシュターンの絵。アウトサイダーアートとは簡単に言えば狂人のアート。精神障害者が描く絵などがそうです。日本だと「お、おにぎりが食べたいんだな」の山下清が有名ですね。

アウトサイダーアートをより詳しく


狂人の絵と言えば語弊を生むので、もう少し詳しく説明します。


ここでアウトサイダーという言葉は「正式な美術教育外」いうことを意味します。つまり、美術の教育を受けていないということなので、子供の描く絵もアウトサイダー・アートと言えます。


彼らは既存の芸術の流派や傾向などから完全に独立しており、自らの衝動にまかせてアートを製作します。


ちなみにアウトサイダー・アートの概念は絵に限った話ではなく、音楽や文学、映像などにも存在します。

アウトサイダーアートの起源


アウトサイダー・アートという概念はフランスの画家ジャン・デュビュッフェにより提唱されました。


彼は精神障害者の絵を見て、これこそ真の創造性から生まれる本当のアートだ!と感激し、フランス語でアール・ブリュット(生の芸術)と名付けたのです。それが英訳されたのがアウトサイダー・アート。


香港で一番有名なアウトサイダー・アーティスト


せっかく香港にいるので、香港で一番有名なアウトサイダー・アーティストを紹介します!人呼んで、「九龍の皇帝」


この人もご多分に漏れずクレイジー。何がクレイジーって、この人自分は皇帝の血を継いでいると思い込んでいるんです。


それで香港の街中に自分の名前やら家系図を書きまくって、ここは私の土地だ!って主張しまくったんですね。逮捕されても、文字を消されても懲りずに同じ場所に文字を書き続けるという奇人っぷり。


そんな彼のキャラクターが香港人の間で人気になり、瞬く間に有名人へ。世界的にもアーティストとして認められて行きます。


本当に芸術家と狂人は紙一重だなと感じさせられるエピソードです。見る側がアートだと思えばアートになるし、落書きだと思えば落書き。何に価値を見出すかはぼくたち次第ってことですね。


こんな感じで、アウトサイダー・アーティストに関する面白い話はたくさんあります。他のアウトサイダー・アーティストについても今後紹介していきたいと思います!







空間を作り変えるインスタレーションアートの世界


現代アートはよくわからない、理解不能だと思っていませんか?そんなアートアレルギーを解消するために現代アートを中心に紹介していきます。今回はインスタレーションアートの楽しみ方をお伝えします。


インスタレーションアート、この表現手法は一言で言えば空間をアートに変えてしまうというものです。例えば上の写真はMartin Creedというイギリスのアーティストの作品で部屋全体を風船がギュウギュウに占めています。



またイタリアのアーティスト、Esther Stockerの作品では幾何学的に空間が構成されています。これらの作品のようにインスタレーションアートとは特別な空間を作り上げ鑑賞者に体験してもらうといったものです。

ヘテロトピアという概念


このインスタレーションアートを支える考え方にヘテロトピアというものがあります。皆さんユートピアという言葉を聞いたことがありますか?ギリシア語でユー(eu)は良い、トピア(topos )は場所という意味で合わせて理想郷を意味する言葉です。それではディストピアはどうでしょうか?これはユートピアの対義語で日本語で地獄郷と訳されることもあります。

ギリシア語で異なるという意味を持つヘテロが頭についたヘテロトピアは直訳すると「異なる場所」。現実の枠組みの中で日常から断絶した異質な空間とも言えます。そのような場所で人は普通とは異なる思考の枠組みで行動をすると言われています。

例えば墓場。墓場は日常から断絶された特殊な空間です。墓場で人びとは先祖を敬ったり、幽霊が出るのではないかと怯えたり、大声でしゃべるのを控えたり、日常とは異なる行動を取りますよね。そのような場所がヘテロトピアです。

この文脈で考えるとインスタレーションアートというのは、人為的にヘテロトピアを作り出し人びとの思考や行動に影響を与える試みだと解釈できます。インスタレーションアートを体験する機会があれば空間だけではなく、自分の考え方や行動の変化に注目してみてください。きっと新たな発見がありますよ!





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