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アートをぶち壊せ!「無駄無駄無駄」のダダイズム


この絵はルネサンスの巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチによる「モナ・リザ」(1503-1519)。ではなく、デュシャンによる「L.H.O.O.Q」(1919)です。ダンディなひげが書き足されています。


「これが芸術?ただのおふざけじゃないか」と思うかもしれません。そうです、ただのおふざけです。しかし、そのおふざけこそがダダイズムという美術運動を象徴的に表しています。


ということで、今回はダダイズムについて説明します。

ダダイズムって何?

ダダイズムは「アンチ」という一言に集約されます。ダダの芸術家たちは今まで正しいと思われてきた全ての価値観を否定します。


デュシャンの「L.H.O.O.Q」は過去の美的価値や伝統の否定を意味しています。タイトルのLHOOQも言葉遊びで、フランス語の同音異句に直して意訳すると「彼女のお尻は熱い」つまり、欲情しているという意味になります。彼のおふざけには「みんなアートを真剣に捉えすぎだ」とメッセージが込められているのです。


これだけ聞くとダダイズムは非常に反社会的で危険な人びとの集まりのように見えます。あの大巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を公然とディスってるわけですから。なぜ彼らは既製価値を否定しようとしたのでしょうか


ダダをもっと深く理解するためにそのルーツを見てみましょう。

戦争の落とし子ダダ

ダダイズムは1916年第一次世界大戦の渦中、中立国スイスのチューリッヒに集まった芸術家たちの間で生まれました。同じ頃ニューヨークでも同じような運動が起こります。


戦争による恐怖や不条理さが同時多発的にダダという運動を各地で引き起こしたのです。


19世紀末、西欧社会は産業革命や機械文明によってもたらされた豊かさに繁栄と希望を見出していました。


しかし、そのような合理性や規律の追求の果てには戦争という大きな暗闇がぽっかりと口を開いて待っていたのです。


今まで信じていたのに裏切られた。そのようなムードが人びとの間で漂い始めます。社会に対する悲しみの心は怒りとなり芸術家の間で噴出しました。


何が合理性だ。何が規律だ。今まで積み上げられてきた価値観の先に戦争が待っていると言うのならば、全て否定してやる!


そのような信条のもと、ダダの芸術家たちは非合理さや無秩序をアートの形で表現します。


たとえば、マン・レイの「贈り物」(1921)ではアイロンに画鋲が着けられており、本来の服の皺を伸ばすというアイロンの価値が否定されています。むしろ服を切り裂いてしまうといった非合理性が皮肉をきかせています。


また、既製品であるアイロンと画鋲をただ組み合わせただけのオブジェはレディメイドという考えに基づいており、作品は一から創造されなければならないという今までの既成概念も壊しています。


また、ダダイズムは偶然性というものも重視しました。たとえば、小さく切った新聞記事をごちゃ混ぜにして並べた詩や、紙を落としていき偶然出来た形を作品とするなど。もはや芸術とも美とも関係ありません


しかし、ダダは今までの全てを否定することで芸術の定義を塗り替え、新しい道を指し示しました。ダダイスム自体は短命に終わってしまうのですが、後にシュルレアリスムやポップアート、パンクアートやコンセプチュアルアートなどに大きな影響を与えます。


アートを否定する立場であったダダイズムが今では美術史に組み込まれ、重要な位置を占めているというのも皮肉なものですね。






これまでのまとめ:20世紀前半の連続的イノベーションを振り返る



今回は今までの現代アート史に関する投稿の内容をざっとまとめ、アートの歴史を塗り替えていった数々のイノベーションを振り返っていきたと思います。

アートのブレイクポイント

自然を模倣することは芸術の大前提。古代に描かれた壁画から印象派の絵画まで、自然をどれだけリアルに描くかを芸術家たちは追求してきました。


しかし、リアルに描こうとする中で芸術表現はさまざまなルールでがんじがらめになってしまいます。たとえば、遠近法を構図に取り入れることや自然に忠実に色を塗ることなど。。。


そして迎えた19世紀末。旧態依然とした芸術に対してうんざりした若いアーティストたちはついに自然を模倣することをやめました


自然を模倣する必要がないということは、今までのルールに従う必要が無くなります。その結果様々な表現スタイルが生まれていくことになります


今までのルールをいかに壊し何を表現するのか。それが20世紀の美術の課題でした。


ブレイクスルーの数々

まず、フォーヴィスムにより色彩のルールが壊されます。フォーヴィスムでは実際の色を完璧に無視して画家の主観的な選択で色を塗ります


色彩の次に形態の改革が起こります。キュビスムの画家たちは風景や人物をシンプルな形に分解し、同一画面上に様々な視点を取り入れます。これにより1つの視点から見た現実を描くという絵画の約束事は壊されました


また絵画では写真のように止められた静的な空間が描かれてきましたが、未来派は時間の概念を絵画上に持ち込み画面にダイナミズムをもたらしました


そして20世紀の美術はついに現実世界と隔離された抽象の世界に行き着きます。対象を再現することを放棄していった結果、線や色のバランスを追求することであったり、素材の味を引き出すことといった内面的な方向に芸術は突き進んでいきます


さらなるブレイクスルーはデュシャンの「泉」(1917)によってもたらされます。芸術家が選択することで単なる既製品も芸術たり得るという考えは、作品を創作するという芸術の前提の前提を打ち壊すものでした。作者は何も作らなくてよいわけです。


このようにアートはアート自体の定義を塗り替えながら20世紀に展開されていきます。つまり、100年前と現在のアートの定義は全く異なるということです。この後アートは歴史の中でどのような方向に進んで我々の時代のアートに行き着くのでしょうか。。。










世界で最も有名な男子用小便器


 

これは世界で最も有名な男子用小便器です。タイトルは「泉」。1917年にフランス出身のアーティスト、マルセル・デュシャンにより作成されました。彼はどこにでもあるただの男子用小便器にリチャードマット(R.Mutt)という署名をし展覧会に出品しました。


この作品を見た美術家たちはこの作品をアートとみなすかどうかという問題に悩まされました。なぜなら、それは署名されたただの便器だからです。皆さんはこれがアートだと思いますか?

アートの定義を壊してしまった「泉」


考えれば考えるほどわからなくなってくると思います。なにを持ってアートを定義するのか?という問題提起こそデュシャンの意図したことでした。


結果としてアートの定義がデュシャンの「泉」以降、絵画や彫刻だけに限らずどんどんと広がっていき、収集がつかなくなってしまいました。デュシャンはこの作品を展示することでそれまでの美術の固定概念を壊したのです。


以下、デュシャンの言葉を抜粋します。

"周知のとおり、芸術とは、語源的に言えば、作る、手で作る、ってことなんだからね。それなのに私は、作るかわりに既製品(レディ・メイド)を持って来た。ということは、《手を加えたレディ・メイド》は、芸術を定義することの可能性を否定する形式ということになります。”―「G・H・ハミルトンとの対話」、1959年


デュシャンは今日のアートをさらにややこしく、おもしろいものにした張本人なのです。

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