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曲線のアール・ヌーヴォーと直線のアール・デコ



今回は19世紀末から20世紀初頭にかけて流行った装飾美術に焦点を当てたいと思います。


装飾美術というのは器具や建造物など、実用品の装飾を目的とする美術のことです。いわゆる純粋美術とは区別されます。アートと言うよりデザインに近いです。


19世紀末にはアール・ヌーヴォー、20世紀初頭にはアール・デコという装飾美術の運動が西洋を中心に起こります。それぞれ特徴を見てみましょう!


自然の再発見、アール・ヌーヴォー



19世紀末に現れたアール・ヌーヴォーは「新しい芸術」を意味しています。基本手作りで一品ずつ熟練の技術で作られていきます。


特徴は有機的な曲線です。植物や昆虫などに見られる滑らかな曲線を職人たちは観察しデザインに取り入れていきました。優しくのびのびと流れていくようなフォルムは内向的で女性的なイメージを彷彿とさせます。


また、鉄やガラスといった当時の新素材が使われたことも特徴です。


自然の美を再発見し日常に取り入れるといったプロセスは、時を同じくしてヨーロッパにもたらされた日本美術や原始美術の影響を受けています。


自然をモチーフに洗練された美しいデザインが特徴のアール・ヌーヴォー。しかし、有機的な曲線は大量生産できずコスト高だったので、結果として一般庶民へはあまり普及しませんでした


そんなアール・ヌーヴォーの代表的画家といえば、そうみんな大好きミュシャです。彼は画家というよりもグラフィックデザイナーやイラストレイターといった方がより正確かもしれません。彼の描く美しい女性や曲線、優しい色使いが多くの人を今でも魅了しています。


「黄道十二宮」(1896-97)では植物や曲線といったアール・ヌーヴォーの要素がふんだんに盛り込まれています。ちなみに黄道十二宮というのは太陽の通り道である黄道を12等分して12星座がそれぞれ当てはめられた領域のことを言うそうですよ。

都市生活との調和、アール・デコ


一方、アール・デコは1910年頃表れた装飾美術の運動です。1925年のパリ博で人気を集め世界中でブームになり、アメリカで隆盛を極めます。


その特徴は幾何学的な固い曲線です。アール・ヌーヴォーとは逆にアール・デコではシャープでキレのある水平線や垂直線がデザインに多用されます。この幾何学的表現はキュビスムなどから影響を受けてたりします。


文明の急速な発展と共に自動車や工業製品などの台頭が近代都市生活を生み出します。そのような都市生活にマッチしたデザインがアール・デコだと言えます。


アール・デコの理想は「生活の中に芸術を」。幾何学的造形は安価での大量生産と洗練されたデザインの両立を達成するのにうってつけだったのです


ニューヨークのエンパイアステートビルなどはアール・デコの建築様式で作られました。


アール・ヌーヴォの代表的画家のミュシャを紹介したので、アール・デコの代表的画家も紹介します。


この絵はレンピッカによる「自画像」(1929)です。車に乗った女性はヘルメットと手袋を着けています。控えめな色使いと口紅の赤がコントラストを生みだしています。都会の生活を感じさせる絵ですね。彼女の自画像は自己主張をする自立した女性のリアルなイメージであると言われています。



アール・ヌーヴォとアール・デコ、正反対の美術運動でありながらそれぞれ独自の魅力を持っています。アール・ヌーヴォ調の家具やアール・デコ調の家具で部屋をコーディネートしてみるのもおもしろいかもしれません。






世界の終わりと世紀末のメッセンジャーたち



その時には、人々は死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げて行くのである。 ―黙示録9章

世紀末に世界は滅びる。。。そんな終末思想に感化された19世紀末の象徴主義。恐ろしい異形のものたちが巣食う世界が耽美的に描かれます。


ということで、今回は目に見えない世界へぼくたちを誘う象徴主義を紹介します。

世紀末の3つのムード

19世紀末、人びとの間では3つのムードが支配的でした。それはベルエポック、デカダンス、そしてアールヌーヴォです。


ベルエポックとは、産業革命や資本主義によりモノで豊かになりゆく社会から生じた享楽的な雰囲気、もしくは時代のことです。


しかし、みんな何を浮かれているんだと一部のインテリは反発しました。ベルエポックは一瞬の輝きにすぎず、その先には退廃的な世界が待っていると彼らは考えていました。急速な進歩に対する嫌悪感や週末への予感といったものが彼らの中に悲観的な雰囲気を作り出します。それがデカダンスです。


そんな暗いデカダンスに対して、「なにをそんなに悲観的になっているんだ、新時代は希望にあふれている!これから我々は新しい芸術を目にするだろう」といった楽観的姿勢、アールヌーヴォが表れます。


象徴主義というのは主にデカダンスに影響された芸術家が主導していった運動でした。彼らは、絵は現実を見せるものではなく曖昧で不確実な世界へと人びとを導く暗示であると捉えました。そのため、魂や精神の神秘に興味を持ち、生死に伴う不安や苦悩、運命や願望を象徴的に表現しました。

象徴主義のメッセンジャーたち


ルドンの「眼=気球」(1878)ではモノクロームで描かれた目が気球となって宙に浮かんでいます。同時代を生きた印象派の画家たちが野外へ飛び出し光を観察していた中、彼はひたすら自分の心の奥底に目を凝らして、そこから沸き上がるイメージを捕まえようとしていました。




こちらの絵はシャヴァンヌの「貧しき漁夫」(1881年頃)。彼の絵画では人物が感情や精神を暗示しています。この絵では漁師を貧しさの象徴として描いています。苦悩やさみしさがダイレクトに伝わってくるような絵です。



ベックリーンの「死の島〈第1ヴァージョン〉」(1880)では風景がモチーフとなっています。陰鬱な島と小さな人影。彼らは何者なのでしょうか。ベックリーン自身はこの絵に関してなんの説明もしておらず謎に包まれていますが、小さな文明から孤立した島はデカダンスを彷彿とさせます。



ムンクも象徴主義の画家として有名です。「思春期」(1894)では少女の後の黒い影が不安を象徴しています。少女をすっぽりと覆ってしまいそうなくらい大きく存在感のある影は生きている限り絶えず我々の後をついてくる死の影とも捉えられます。



と、他にも暗い世界を描いた象徴主義の画家や絵画はたくさん存在しますが、今回はこのくらいにします。


個人的に象徴主義の絵は大好きです。想像力を掻き立てられるような独特の世界観がたまりません。なんだか見てはいけないものを覗き見ているような背徳感を感じます。しかし、気をつけなければいけません。なぜなら、「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている」からです…

















「近代絵画の父」セザンヌと新たな視点



ポスト印象派四天王シリーズ、最後の画家はセザンヌです。彼は「近代絵画の父」と呼ばれるだけあって彼以降の美術をひっくり返してしまうような革新的な絵画を生み出しました。その革新性について今回は書いていきます。


彼は印象派に厳密性や確固たるものを求めました。その結果として多角的視点や構造的視点という新たなものの見方を生み出し、「絵画の世界」へのドアを開きます。

多角的視点の導入

セザンヌの偉大な功績は多角的視点を発見し絵画に導入したことです。


多角的じゃないものの見方、とは1点から固定されたものの見方のことです。頭を動かさずに片目をつむって目の前を見てください。それが1点から固定された見方です。


セザンヌ以前の画家はそのような視点から絵画を描きました。というか当たり前のことすぎて固定された1点からの視点という認識もなかったと思います。


上の写真が1点からの固定された1つの視点の例です。



しかし、セザンヌはそのやり方では本当にぼくらが見ている光景を正確に写しとることはできないといいます。


ぼくらは二つの目を持っています。そして、右目と左目で見えている光景はそれぞれ微妙に異なります。この時点で1点からの視点というのは不自然であると言えます。


それに加えて、ぼくらが何かを観察するときは、頭を傾けたり、近づけたり、引いたり、高さを変えたり色んな角度からものを見ています。でもなぜか、そんな観察の結果生み出される絵画はまるで一つの固定されたレンズから撮られた写真のようです。


彼はその方法では不完全だと主張しました。


そんな彼の解決策は複数の視点を絵画に取り入れることでした。たとえば、前から見たりんごと斜め上から見たりんごを画面に同時に描いてみたり。


これは彼の「りんごとオレンジのある静物」(1895)です。椅子を斜め上から見下ろしている視点ですが、その割にはその上に乗ってる入れ物の角度が不自然だったりします。微妙なんであんまり気づかないんですけどねw


この複数の視点を一つの画面に取り入れる手法は後にピカソのキュビスムにつながっていきます。

構造的視点の導入

多角的視点だけでも十分革新的なのですが、他にも彼を「近代絵画の父」と言わしめる発見があります。


自然を形作る基本構造の発見です。これは簡単にいえば、風景を□や△といった基本的パターンで捉えるという視点のことです。


たとえば、普段りんごを見るとき模様とか色をまじまじと観察しませんよね。ぼくらはまず丸いものを◯として単純化して認識します。


風景もそうです。葉っぱの一枚一枚をじっくり見ることはありません。木は長方形、山は三角、太陽は丸としてまず認識します。複雑な風景はそのような基本的パターンの集まりで捉えることができます。


これらのパターンは普遍的です。どこの時代でも国でも□は□、◯は◯。セザンヌはそのような基本構造を絵画上に配置しなおすことで、普遍的な自然の構造を描こうとしました。結果、風景は極端に単純化されて描かれます。


彼の「セントビクトワール山」(1904)では風景が四角や三角などの形に単純化されています。

絵画の世界へようこそ

これらの手法により彼は普遍的で変わらない本質を正確に厳密に描こうとしました。


でもそのことにより逆にリアルな描写から遠ざかってしまうという矛盾を抱えます。実際ものを見るときに前からの視点と斜めからの視点は混じらないし風景はもっと複雑です。セザンヌの絵よりも写真の方がリアルだとほとんどの人は感じます。


しかし、結果として彼は絵画を単なる現実の模倣を超えた次元へと導きます。


それが、「絵画の世界」!


絵画は模倣ではない。つまり、現実に依拠しない存在である。よって、絵画はスタンドアローン。絵の中に描かれた人やものは絵画空間に存在するのであり現実のコピーではない。色や線、かたちから構成される現実切り離された空間、「絵画の世界」の誕生です。


彼以前の絵画はリアルの追求でした。彼以降は絵画が現実からどんどん離れていって難解なものになっていきます。ゆえに彼は「近代絵画の父」と呼ばれるのです。













スーラの科学的アプローチと光のさらなる追求




今回はポスト印象派の四天王の一人スーラを詳しく取り上げます。スーラは印象派をさらに進化させ新印象派という新たなステージを切り開きました


新印象派の画家たちは科学性を重視し、印象派の手法をさらに理論化しました。そして、点描法により光をより鮮明に画面に反映させることができると考えました。

印象派の絵はカオスである


まず、比較のために印象派の絵を紹介します。この絵はモネの「ジヴェルニーのモネの庭の小道」(1901-2)。印象派に特徴的な日常的主題、鮮やかな色彩、大気が振動しているような効果が見られます。


しかし、スーラにとってこのような印象派の絵はまるで部屋に乱雑に脱ぎ捨てられた服みたいなものでした。彼はそんな脱ぎ散らかされた服をしっかり畳んで整理すべきだと考えたのです。


われ混沌に秩序と規律をもたらす者…っていう感じです。

科学による光の追求

1880年代、科学は急速にパリの生活を変えていきました。そんなムードの中、スーラも全ては科学により説明される、アートもまた例外ではないと考えました。


そこで彼は色彩科学を勉強し始めました。そして彼は色彩科学と印象派のスタイルを融合させることが現代アートには必要だと感じます。


そもそも色彩科学ってどんなものでしょうか。


たとえば、補色の色を横に並べるとそれぞれの色がお互いを際立たせるという効果があります。補色というのはオレンジ黄色みたいに色相関において正反対の位置にある色の組み合わせをいいます。


それら正反対の色がお互いを引き立てるというのは、いわゆるスイカに塩をかけるとスイカの甘さが際立つ的な理論です。赤色をもっと赤く、緑色をもっと緑に。色の鮮やかさをもっと引き出したいとスーラは考えます。


でも、だからといって赤と緑を混ぜたら汚い色になります。絵の具で色を混ぜていくと黒に近づいていくからです。


そこで、赤や緑の色を混ぜずに原色のままで点として隣接させることで、色の持つ鮮やかさを最大限に引き出す、と同時に遠くから見るとそれらの点は鑑賞者の目で混ぜられて一つの色を形成する点描技法が印象派の画家には採用されました。


点描技法自体は印象派の画家にも使われていましたが、スーラは彼らが感覚的に使っていた点描技法をシステマティックな技法にし、科学的に分析した色だけを計画的に使って絵を構成していきました。


では実際に彼のやり方がどのように絵画に反映されているのか見てみましょう。


光と静寂


スーラの代表作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1884-1886)です。この絵は実際には縦2メートル、横3メートルという巨大な絵画で、近くから見ると細かい点が見えるはずです。


印象派の絵と違い人や木などの形がはっきりと描かれています。しかし、点描法による色彩の構成により、画面全体に微妙な振動や鮮やかさが生まれています。


しかし、人びとはどうでしょうか。本来賑やかであるはずの光景なのに不気味な静寂が感じられます。まるで時間が止められてしまったかのように。また、人びとも単純化されて描かれています。まるでハリボテみたいです。


実はここが印象派との大きな違いです。実際のパリの公園はもっと賑やかでこのように人びとが秩序的に並んでいることなんてありえません。


あるがままを描こうとした印象派とは違い、このように新印象派の画家は画面を精密に構築していきます


印象派は科学的アプローチにより新印象派へと進み、もはや絵画は単なる自然の模倣ではなくなっていきます…















ゴーギャンの日常と非日常の融合





今回はポスト印象派の代表的画家の一人ゴーギャンの総合主義に着目します。


総合主義は、芸術とは自然形態の外観、主題に対する画家自らの感覚、線・色彩・形態についての美学的な考察を総合したものでなければならないという主張に基づいています。この主張に基づき、総合主義の画家は主観と客観を一つの画面に総合し描きます。


上の絵はゴーギャンを一躍有名にした「説教のあとの幻影」(1888)という絵です。フランス北西部ブルターニュ地方田舎の女性たちが協会での説教を聞いた後、聖なる光景を見ているシーンが描かれています。


どこらへんが聖なる光景なのかと言いますと。旧約聖書でヤコブが天使とレスリングするっていうシーンがありまして、右上で戦っているのがその二人です。


ちなみに、ヤコブは天使と格闘した結果として神の勝者を意味する「イスラエル」の名を与えられるんですが、それがイスラエルという国名の由来となってるみたいです。

日常と非日常の融合


この絵のおもしろさは現実世界と幻想世界が一つの画面に融合されているという点です。


彼女らの服装はブルターニュ地方に伝統的なものでそこは現実的です。また、ブルターニュ地方では、人びとが円状に集まってレスリングをみることは珍しくありません。あくまで彼女らの行動は観察により忠実に描かれているわけです。


しかし、右上の天使との格闘はあきらかに空想世界の出来事ですし、草原の色もオレンジと普通ではありません


彼は彼女らが現実ではない宗教的幻想世界を見ているのだということを示すため、草原をあえてオレンジで塗りました。彼はオレンジという色を象徴的かつ装飾的な意味合いで使ったのです。


印象派は光を忠実に再現するために色を選びましたが、彼にとっては草原が実際にどのような色をしているかはOut of 眼中でした。


また真ん中の幹は二つの世界を分けるための役割を果たしています。左が現実世界で右が空想世界です。実際に木があったから描いたというよりも意図的に木をそこに配置して描いていることが窺えます。


ちなみに、グラデーションのないべったりとした色の塗りは浮世絵から影響を受けていたりします。


以上の分析から、たしかに彼の絵には統合主義の主張である自然形態の外観、主題に対する画家自らの感覚、線・色彩・形態についての美学的な考察が総合されているように思えます。



彼はこのようにして日常と非日常を繋ぐ独特な絵画を生み出しました。幻想的なゴーギャンの視点はシュールレアリスムにも大きな影響を与えます。


この絵によりゴーギャンは有名になるわけですが、後に彼は未開の楽園、原始的な美を求めてタヒチに行き創作活動を続けます。彼はそこでまた独特なスタイルを発展させていくのですが、そのことについては他の記事で書きたいと思います。










ゴッホのうねりと表現主義の画家たち




ゴッホは形態のねじれやうねり、幻想的な色使いにより感情を表現しました。今回はそんな彼の表現主義的テクニックに着目し、彼以前と以後の表現主義の画家たちを紹介していきます。

ゴッホ以前の表現主義


実はゴッホが生まれる300年前に、すでにねじれやうねりにより感情を表現したアーティストがいました。それはルネサンスの巨匠エル・グレコです。


たとえば、「無原罪のお宿り」(1607-1613)ではねじられた身体、独特の歪みによりゆらめいているような画面、激しいタッチが特徴的です。


しかし、当時はこの観るものの感情に訴えかけるような表現主義的手法は受け入れられませんでした。時代がエル・グレコに追いつくのには300年かかることになります。


ゴッホとエル・グレコの間には絵の表現手法以外にも共通点がたくさんあります。どちらも宗教に熱心で物質主義を嫌ったこと。アーティストとしてのキャリアは順風満帆ではなかったこと。インスピレーションを求めどちらも生まれ故郷を離れたこと。


しかし、大きな違いがあります。それは主題の違いです。エル・グレコの主題は主にミステリアスで、貴族的で、宗教的なものでした。一方ゴッホはカフェや木、農民など日常風景を好んで描きました。これは印象派以前と以後の大きな違いでもあります。

ゴッホ以後の表現主義の画家たち

 ゴッホは1890年に誰にも知られずに亡くなりますが、表現主義は彼を信望するアーティストたちによって受け継がれていきます。



ゴッホの影響が顕著に見られる例として、有名なムンクの「叫び」(1893)があげられます。この絵は1893年に描かれました。絵画上における感情の表現法に悩んでいた彼はゴッホの絵からインスピレーションを受け、ゆがみやうねりにより不安感を強調することに成功しています。


後々、人の叫びというモチーフは20世紀の代表的アーティストフランシス・ベーコンの中心的興味関心になっていきます。


彼の「映画『戦艦ポチョムキン』の乳母のための習作」(1957)では叫んでいる人が中央に配置されています。変形された人の造形と現実にはありえない色が叫びを痛々しいまでに増幅しています。彼自身ゴッホのことを「偉大なヒーロー」と称えており、ゴッホの影響を受けていることが伺えます。


このように、形や色を感情で支配するような荒々しいゴッホの表現スタイルはアートの新しい方向性を切り開き現代アートに大きなインパクトを残していったのです。









ポスト印象派の四天王に見る印象派のその後



1880年代に入ると、印象派の画家たちの結びつきは薄くなり、1886年の印象派展を最後に印象派時代も終わりを迎えます。そして、考え方の違いから印象派を軸として徐々にアートスタイルが枝分かれしていきます


その基盤を作り上げたのがポスト印象派と呼ばれる画家たちです。ポストというのは脱と捉えてもらっても構いません。


その中でも代表的な画家たちがセザンヌゴーギャンゴッホスーラの4巨匠です。彼らは技法も理念も独創的で共通点はないのですが、ポスト印象派という言葉で一括りに説明されます。彼らはそれぞれ印象派を違う方向に大きく発展させていき現代美術の礎を作っていきました

セザンヌの構造的視点


セザンヌは自然の中に不変的な構造がありそれを分析することで本質がつかめると考えました。印象派の画家は移り変わる光に注目しましたが、セザンヌは変わらない構造に着目したのです。そして、形や空間の捉え方に対して新しい視点を生み出します。後々彼のスタイルはピカソのキュビスムにつながっていきます。


上の絵はセザンヌによる「サント・ヴィクトワール山」(1904)。「自然を円筒、球、円錐によって扱いなさい」という彼の考えに基づき自然がブロックを組み合わせるように構築されています。ゆえに彼の絵は構築的だと言われます。

ゴーギャンの抽象と具象



ゴーギャンははっきりとした輪郭線、鮮やかな色の平塗り、単純化した形が特徴的な総合主義を生み出します。総合主義の考え方は、主観と客観を統合して画家の意図を絵の世界で表現しようというものです。印象派は目に見える世界をいかに見たままに写しとるかに着目していました。この後総合主義は目に見えない抽象概念をテーマに扱う象徴主義に受け継がれていきます。


彼の「黄色いキリスト」(1889)では目に見える風景や人物と現実世界にはいないキリストが画面に総合されています。

ゴッホの表現の爆発


ゴッホにとって色は感情を表すためのものであり、印象派のように光を再現するためのものではありませんでした。内面的感情が風景などを歪めてしまうような彼独特の表現は、感情を強調する表現主義や色彩を自由に使うフォーヴィスムなどに影響を与えます。


「星月夜」(1889)では感情の大きなうねりが画面いっぱいに反映されています。

スーラの科学的色彩表現


スーラは印象主義をさらに深めていき新印象主義を作り出します。彼は目の前の光をあるがままに描くという感覚的な印象派とは違い、科学的に色彩の持つ効果を分析し計画的に画面を構成します。たとえば、暖色系の色は陽気さを表すとか寒色系の色は悲しさを表すとか。後々その絵画に対する理論的アプローチがフォーヴィスムやキュビスムなどにつながります。


「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1884-1886)では点描によりシステマティックに色彩をコントロールしています。


ポスト印象派の共通点

といったように全員ばらばらで共通点がないように思えるのですが根本的な考えには共通する部分があります。


印象派の画家たちは真実は一瞬の光にあるとし身の回りのものをあるがままに描こうとしました。一方、ポスト印象派の画家は真実は不変であるというスタンスを取り、概念や感情を色、線、かたちを自由に使って表現しようとしました


ここから本格的に現代美術の時代に突入して難しくなるので少しずつ解説していこうと思います!








浮世絵の、ダイナミズムと、印象派



今まで印象派について書いてきましたが、印象派を語るのに浮世絵の存在を無視することはできません。浮世絵はモネ、マネ、ルノワール、ドガを始めとした印象派の画家たちに大きく影響を与えます


浮世絵が彼らに知られるきっかけとなったのは19世紀後半(1855年,1867年, 1878年)、パリを中心に開催された万国博覧会でした。そこで浮世絵を中心とした日本の美術工芸品が大々的に紹介されたのです。日本はずっと鎖国していたので、それまで浮世絵が海外で見られることはありませんでした。


今まで見たこともない浮世絵に感動した印象派の画家たちは積極的にその構図や技法、色使いを取り入れました

広重の視点と構図


それでは、どのように影響を受けているのか一つ例をあげようと思います。


これは歌川広重による「丸清版・隷書東海道五十三次」(1847-1851)の「大津」という作品。旅人や商人の日常風景を写しとったもので一見平凡な絵に見えます。しかし、注目すべきは視点と構図!


広重は俯瞰的な視点で通りを描いています。また、斜めのラインが視線を左下から右上に誘導します。さらに全景がフレームに切り取られています。というのは、一番下の男が腰から上しか描かれてないっていうことです。これらの要素が画面に活気をもたらしています


このような浮世絵的表現スタイルは印象派の絵に継承されます。



こちらはドガの「ダンス教室」(1875)。バレリーナの練習風景を描いたものです。


すぐに気付く点として斜めの構図が広重の絵と共通しています。さらに、少し斜め上の視点から風景が描かれています。また右上のダンサーが絵の枠に切り取られています。


これらの表現スタイルが画面を動的なものにしています。ドガは一瞬の動きを写真のように写しとったような絵画を目指しました。彼はその動きを強調するために浮世絵のテクニックを積極的に使っていったのです


ちなみに、ドガも印象派を代表する画家なのですが目の病気のせいで、他の印象派の画家のようにあまり外に出て作業することはありませんでした。


彼以外にも多くの印象派の画家が浮世絵から大きな影響を受けています。印象派は日本と深い繋がりを持っているのです。








新古典主義から印象派の始まりまでざっくり解説(後編)



前編はこちら

マネによるイノベーション

ドラクロワのロマン主義的な芸術手法。クルーベの写実主義的な姿勢。それらを融合させ印象派への扉を開いたのがマネでした。


上の「アブサンの酒飲み」という作品では当時のパリっ子の日常風景を描いています。それとナポレオンの絵と比べてグラデーションによる立体感の強調といった伝統的手法も取られていません。

保守派vs急進派

と、このように新しいスタイルの絵画を描き上げたマネだったのですが、保守的なアカデミーはサロンへの出展を認めずはねつけます。当時はアカデミー認可の展覧会のみが作品を発表できる場所でした。


でも、彼は一人じゃありませんでした。彼と同じように新しいスタイルを試して門前払いされた画家がたくさんいました。


守派vs急進派の間で火の粉がバチバチしている構図です。そんな状況を見たナポレオン三世は「このままだと暴動とかおきんじゃねぇの…」と危惧し、1863年にアカデミーにより否定されたアートのための展覧会(Salon of the Rejected)を特別に開きます。


どっちが正しいのかは民衆に決めてもらおうぜっていうスタンスです。まぁ、民衆はそんなにアートに興味があるわけでもなかったのですが。


しかし、結果として若くて前衛的な芸術家たちはアカデミー以外の作品発表の場所を手に入れました。そこで、マネの「アブサンの酒飲み」は注目を集め、後に印象派と呼ばれる画家たちに大きな影響を与えます。


つまり、マネはロマン主義や写実主義といった芸術のスタイルから印象派へと橋渡しした第一人者なのです


印象派を支えたもう一人の人物

1863年は現代美術において飛躍の年でした。しかし、もう一つ特筆すべきことがあります。それは、フランスの詩人、作家、芸術批評家のボードレールによるThe Painter of Modern Lifeが出版されたのです。ボードレールは「惡の華」で最近注目を集めてますね。


テクニックや姿勢などでドラクロワやクルーベが印象派の画家達に影響を与えたとするならば、ボードレールは理論面で大きく貢献しました


彼は主張しました。現代のアートというものは過去についてではなく現代生活を描くものであるべきであり、「今・ここ」という日常から普遍的なものを抽出する作業こそがアートの本質的な目的であると。


そしてそのためには、外に行き我々の日常を観察し、思考を巡らせ、感じて、記録することが大切だと説きました。


このボードレールの主張があったからこそ、マネはアカデミーを無視して自分のスタイルを貫くことができたのです。



以上、印象派までの大きな美術史の流れを2回にわけて解説しました。今後はこれ以降の現代アートの流れを中心的に書いていきます。


ここまでの流れを踏まえて、ことごとくルールを壊した印象派と現代美術の始まりを読んでみてください。さらに理解が深まると思います!




ことごとくルールを壊した印象派と現代美術の始まり



意味のわからない現代アートと比べて、このモネの睡蓮に代表される印象派の絵こそ真の芸術だ!って思う人は多いんじゃないでしょうか。


今でこそ確固たる芸術的地位が与えられている印象派の絵ですが、実は当時の時代の基準からしたら印象派の画家たちは芸術界のはみ出し者でした。


印象派の画家たちは当時の美術の常識を次々壊していきます


当時の常識
  • 主な題材は神話、宗教、歴史など
  • 作業場所は屋内
  • ルネサンスの絵画技法が伝統だった

Break the rules!!



印象派の画家にとっての題材は身の回りの風景でした。ピクニックや散歩をしている人たちなど、当時の常識からしたら芸術的価値のないものを印象派の画家たちはキャンバスに描きました。


また、彼らは主に野外で絵を描きました。もちろん印象派以前の画家も野外に行ってスケッチなどすることはありましたが絵の作成に向かうのは屋内の作業場でした。しかし、チューブ入り絵の具や野外イーゼルの発明により画家は屋外で作業することができるようになったのです。


さらに、ダビンチのモナリザのように薄い絵の具の層を重ねていく方法で立体感を出す、といった伝統的な方法を彼らは採用しませんでした。


印象派の画家は厚く、短く、アクセントの効いた筆使いで色彩豊かに光をスピーディーに写しとります。野外では光がすぐに移り変わり色がすぐに変わってしまいます。伝統的な手法は印象派の画家たちにとってあまりにも時間がかかりました。


彼らにとっての興味関心は伝統でも歴史でもなく、彼らがリアリティを感じる今生きている時代そのものでした。だからこそ野外に出て自分たちの身の回りを観察しその場でリアルな色彩を忠実に写しとることにこだわったのです。


彼らにとっての現代美術


しかし、彼らの試みは当時の美術界から酷評を受けました。なぜなら、彼らは何年も続いてきたルールや常識をことごとく壊してしまったからです。


今でこそ美術史上で印象派という名前を与えられて、絵画市場では高額で取引される彼らの絵ですが、彼らにとっては「今・ここ」を写しとる現代美術だったのです。









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