陶芸教室での体験
この前、ふと思い立って陶芸教室の説明会に行ってきました。
棚の上には生徒の作品が所狭しと並べてあって、一目でモチーフがわかるものから、抽象的なものまで様々でした。
何気なしに観察していると、それらの作品が実用的なものと実用的でないものに分類できることに気づきました。
前者は食器や花瓶などです。後者は人形や置物です。
僕はそれらを見たときに、一見なんのために作られたかわからないオブジェの方により芸術性を感じました。もちろん、実用的な作品にも美しい装飾は施されていたのですが、アートであるとは思いませんでした。
なぜそのように感じたかを考えてみました。そして出た結論。
それは謎を提供しているかどうかです。
食器や花瓶は用途がハッキリしています。いつどこで誰がなんのために使うのかといったことは、その形状からわかります。
一方、謎のオブジェはそもそも何のために作られたのか、その着想がどこから来たのかといったことがわかりません。
この謎こそが鑑賞者をその作品が持つ世界に引きずり込み、芸術を芸術たらしめるのではないかと考えました。
縄文土器は芸術か
上記の観点から縄文土器が芸術なのかどうかということを考えたいと思います。
というのも、縄文土器は世界最古の土器として知られていて、実用性を持ちつつも多くの謎を提供しているからです。
縄文土器が芸術かどうかを考えることで、アートの輪郭がより明確になるのではないかと思います。
縄文土器といえば、何を連想しますか?僕は歴史の教科書で見た縄で模様がつけてあるボール状の容器や、埴輪的なものが思い浮かびます。
こんなのとか。
とてもシンプルですね。これは芸術とは言えなさそうです。
装飾も控えめで使用用途もある程度わかるためです。
しかし、縄文土器には様々種類があって、実用的な装飾の度合いをはるかに超えたものもあります。
例えば、火焔型土器。燃え上がる火焔のような装飾からそう呼ばれています。
確実に使いにくい!
呪術用なのでしょうか。容器として使うには過剰な装飾です。
他にはお産土器。出産を表しているとされています。
施されたシンボルから物語的表現が見て取れますが、こちらも普段使いには適していないように見えますね。
CraftからArtへ
これらの土器に使われている技巧やシンボリックな表現は現代アートにつながる部分もあるのですが、どちらも実用性があるという点ではアートとは呼べないのかなと思います。
土偶についても宗教的用途で作成されたとされていて、実用的な用途という観点から彫刻とは別物であると言えます。
一方、我々はこれらを謎を提供するオブジェという観点からアートとして捉えることもできます。
我々の時代は彼らの時代と大きく異なります。様々な研究で解明されたことも多いのですが、どのような社会的背景からこれらの土器が作成されたかを完全に知ることは難しいです。
ゆえに我々は1万年前の土器を目にして色々と疑問を持ち想像するわけですね。
実際、遮光器土偶とか見ると、明らかに身の回りの風景をモチーフにしたものではなく、何か異質な感覚を受けます。縄文時代に宇宙人との交流があったのかもしれないな〜とか考えてしまいます。
結論としては、縄文人にとってこれらはアートではありません。実用的な目的を持って作成されたためです。僕らが時計や携帯電話をアートと見ないのと同じことです。
しかし、僕らにとっては謎を提供するアートとなります。一つ一つの模様が謎を生み出し、これらの作品の持つ世界へと鑑賞者を誘います。
つまり、時代の隔たりが謎を醸成し、craftをartに変えるということです。
僕らが現在芸術作品と見なしていない実用的なものも、1万年後には美術館に展示されているかもしれませんね。
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