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感情を経験する場としての絵画と抽象表現主義




キャンバスに荒々しく叩きつけられた色、色、色。画面は色のカオスで覆われています。一見狂人の描いた絵です。しかし実はこの絵、アメリカ美術史始まって以来の天才だと言われた大芸術家ジャクソン・ポロックによって描かれたものです。


なんと彼の作品は100億単位で取引されてたりします。ゴミのような絵が高額で取引されるなんて全く意味がわからないっていうのが普通の感覚だと思います。そうやってアートに対する苦手意識が生まれてしまうんですねーー。


今回はそんな難解な抽象表現主義の絵画をできるだけわかりやすく説明していきます。

抽象表現主義とは

第二次世界大戦の戦禍から逃れるためヨーローッパから多くの芸術家がアメリカに亡命し、アートの中心はパリからニューヨークに移ります。そこで1940年代後半から1950年代にかけて流行ったのが抽象表現主義です。


抽象表現主義はその名の通りゴッホのような感情の荒々しい表現と、現実を再現しない抽象的イメージが特徴的です。


また、イメージが画面全体を均一に覆うオールオーバーも重要な要素です。画面に中心や背景、前景などはありません。鑑賞者はどこを見ていいかわからなくなり、細部ではなくて全体を見ようとします。そのことより絵画に包みこまれるような印象を抱かせます。


ひたすら画面が巨大なことも抽象表現主義の特徴です。人より大きなイメージはそこに独自の空間を作り出します。このことも鑑賞者に絵画の中にいるような感覚を与えます。


これらの二つの要素、オールオーバーと画面の巨大さは絵画を見るものではなく経験するものに変えます


そんな抽象表現主義は手法によりアクション・ペインティングとカラーフィールド・ペインティングの二つに分かれます。

ポロックとアクション・ペインティング



アクション・ペインティングの基本的な考え方は出来上がった絵よりも、描く行為そのものが大切であるというものです。結果じゃなくて過程でしょってやつです。


アクション・ペインティングでは絵画の定義が拡張されており、絵画とは描きあがったものだけではなく、製作中の作家によるアクションの軌跡、場であるという解釈がなされます。


アクション・ペインティングといえばジャクソン・ポロックです。


ポロックは床の上にキャンバスを敷き、その上から筆につけた絵の具を叩きつけるようにして絵画を制作します。もはや筆とキャンバスは触れずに、絵の具は空中に放たれキャンバスの表面に跳ね散らかり色彩のパターンを形成します。


彼は自らのアクションを画面に投影することで複雑な感情をダイレクトに表現しました。そのようなむき出しの感情は巨大なキャンバスの全てを覆い尽くし見るものを圧倒します。


アクション・ペインティングはシュールレアリズムのオートマティズムという手法に強く影響を受けています。オートマティズムとは無意識の状態で絵を描くというスタイルです。


アクション・ペインティングにおいて絵の具の跳ね返りなどは計算できるものではなく、偶然性が生み出す色のパターンは意識の干渉を受けません。そのような意味では無意識の生み出す絵画であるとも言えます。


ロスコとカラー・フィールド・ペインティング


一方、カラー・フィールド・ペインティングでは、均質な色が平面的に広がる画面が特徴的です。一言で言っちゃえば色の壁です。


カラー・フィールド・ペインティングと言えばロスコ


私は悲劇、忘我、運命といった人間の基本的な感情を表現することだけに関心があります。」という発言の通りロスコは色彩で感情を表現します。


しかし一方で「大切なのは色彩ではなく寸法だ」という言葉も残しており、彼はイメージそのものよりも絵画の巨大さによる感情の体験を重視しました。


上の写真ではロスコの絵画に向き合う人びとが写されています。彼らは絵画から意味を読み出そうとしているのではなく絵画を経験しています。そう、まるで教会で賛美歌を聞くクリスチャンのように。




と、二つの抽象表現主義のスタイルを見てきましたが、どちらにとってもオールオーバーと絵画の大きさが作り出す経験という要素は必要不可欠なものです。


なので、PC上でこれらの絵画を見てもあんまり意味はありません。PCモニターでは絵画の大きさが排除されているので抽象表現主義の絵画はポテンシャルを全く発揮できていないのです


だからこそ、ネット上で「こんな絵誰にでもかける」といった批判がなされたりするんですね。抽象表現主義はもしかしたら現代美術の中で最も不当な扱いを受けているのかもしれません。







シュールレアリズムと混沌への扉を開ける2つの手法



死体がベッドの上に横たわり、その傍らには音楽を楽しむ暗殺者が佇んでいます。彼の死角には二人の警官が武器を構えチャンスを窺っており、窓の外からは3人の目撃者が部屋の中を覗きこんでいます。


マグリットの「暗殺者危うし」(1927)という絵は一見写実的に見えますが、なにか現実離れした浮遊感を鑑賞者に感じさせます。微妙におかしい点がたくさんあるからかもしれません。なぜ網と棍棒?音楽を楽しんでいるのはなぜ?3人の男たちは誰?この絵を見ると不思議で不気味な夢の中のような感覚を抱きます。。。。


今回はそんな夢や無意識を描くシュールレアリズムの世界を紹介します。

シュールレアリズムとは

みなさんもシュールという言葉を日常的に使ったり聞いたりすることがあると思います。普通ではありえないような組み合わせに対してシュールだと形容することがあるようです。


そんなシュールという言葉の使われ方の通り、シュールレアリズムの画家たちはありえないものを組みあせたような表現をします。


本来あるべき場所や環境と無関係な状況に物や人をおいて、不安な雰囲気、不条理で謎めいた超現実的な空間を生む方法はデペイズマン(配置転換)と呼ばれます。


マグリットによる「共同発明」(1935)では魚の頭部と人間の下半身が融合しており、浜辺に打ち上げられています。まさにデペイズマンです。


しかし、シュールレアリズムの画家にとっては彼らの目的を達成するための一つの手段にすぎませんでした。


彼らの目的とは何か。


それは現実を超えたリアリズムを捉えることでした。


彼らはダダイズムの非合理や無秩序という精神を受け継ぎ、それらにコントロールされない夢や無意識の世界に現実を超えたリアルを見出します


合理的、科学的なものにしばられない夢の世界。理性や意識を持ってはアクセスできない無意識の世界。混沌が支配するそれらの世界に踏み込みそこからイメージを生み出す方法は二つあります


夢を再構築するダリ的表現


一つの方向はリアルに描かれた物や人をあり得ない組み合わせで配置することで夢や無意識の世界を表すといった方法でした。


ダリの「記憶の固執」(1931)では溶けた時計が木や机にかけられています。時計がこのように溶けることなんてありえません。非日常的で夢の中のようです。合理性をはかる基準である時間を表す時計が溶けているのは非合理を絵に描いたようなものであると言えます。


また、ダリはイメージを写実的に描くほどそれらのあり得ない組み合わせが大きなインパクトを持つと考えました。


写実+非日常空間=ダリ的表現です。


無意識のままに描くミロ的表現


二つ目の方向は画家自身が無意識の状態で絵を描くという方法です。ミロによる「ハーレクインのカーニバル」(1924-25)は彼自身が空腹の中で見た幻想をスケッチしたものです。


シュールレアリズムの画家には眠りながら絵を描いた人もいたようです。しかし、一般の画家にはそんな真似はできません。彼らは例外的でした。一般的にはオートマティズムという方法が取られます。


オートマティズムとは意図的に偶然の要素を利用して意識下のイメージや連想を引き出そうとする方法です。


たとえば、凸凹のある素材の上においた紙を鉛筆などでこすって、そこに現れた素材表面の質感が作り出す予期しない形をイメージとして利用するフロッタージュ。


絵の具をつけた紙に別の紙を被せてこすり、出来上がった偶然の模様をイメージとして利用するデカルコマニーなど、ぼくらが美術の授業でならった懐かしい手法の数々がオートマティズムの例です。


そんな偶然から出来上がったイメージに対し、「壁の木目が人の顔に見える的」連想をして無意識を表現します。


エルンストによる「沈黙の目」(1943-44)ではデカルコマニーが使われているようです。真ん中の模様ですかね。




以上見てきたように、二つの方法によりシュールレアリズムの画家たちは現実を超越したリアリティを捉えようとしました。


本当にこれらの方法で夢や無意識の世界が表現できるのかは謎ですが、少なくとも不気味で魅力的な非日常空間をつくり上げることには成功していますね。









曲線のアール・ヌーヴォーと直線のアール・デコ



今回は19世紀末から20世紀初頭にかけて流行った装飾美術に焦点を当てたいと思います。


装飾美術というのは器具や建造物など、実用品の装飾を目的とする美術のことです。いわゆる純粋美術とは区別されます。アートと言うよりデザインに近いです。


19世紀末にはアール・ヌーヴォー、20世紀初頭にはアール・デコという装飾美術の運動が西洋を中心に起こります。それぞれ特徴を見てみましょう!


自然の再発見、アール・ヌーヴォー



19世紀末に現れたアール・ヌーヴォーは「新しい芸術」を意味しています。基本手作りで一品ずつ熟練の技術で作られていきます。


特徴は有機的な曲線です。植物や昆虫などに見られる滑らかな曲線を職人たちは観察しデザインに取り入れていきました。優しくのびのびと流れていくようなフォルムは内向的で女性的なイメージを彷彿とさせます。


また、鉄やガラスといった当時の新素材が使われたことも特徴です。


自然の美を再発見し日常に取り入れるといったプロセスは、時を同じくしてヨーロッパにもたらされた日本美術や原始美術の影響を受けています。


自然をモチーフに洗練された美しいデザインが特徴のアール・ヌーヴォー。しかし、有機的な曲線は大量生産できずコスト高だったので、結果として一般庶民へはあまり普及しませんでした


そんなアール・ヌーヴォーの代表的画家といえば、そうみんな大好きミュシャです。彼は画家というよりもグラフィックデザイナーやイラストレイターといった方がより正確かもしれません。彼の描く美しい女性や曲線、優しい色使いが多くの人を今でも魅了しています。


「黄道十二宮」(1896-97)では植物や曲線といったアール・ヌーヴォーの要素がふんだんに盛り込まれています。ちなみに黄道十二宮というのは太陽の通り道である黄道を12等分して12星座がそれぞれ当てはめられた領域のことを言うそうですよ。

都市生活との調和、アール・デコ


一方、アール・デコは1910年頃表れた装飾美術の運動です。1925年のパリ博で人気を集め世界中でブームになり、アメリカで隆盛を極めます。


その特徴は幾何学的な固い曲線です。アール・ヌーヴォーとは逆にアール・デコではシャープでキレのある水平線や垂直線がデザインに多用されます。この幾何学的表現はキュビスムなどから影響を受けてたりします。


文明の急速な発展と共に自動車や工業製品などの台頭が近代都市生活を生み出します。そのような都市生活にマッチしたデザインがアール・デコだと言えます。


アール・デコの理想は「生活の中に芸術を」。幾何学的造形は安価での大量生産と洗練されたデザインの両立を達成するのにうってつけだったのです


ニューヨークのエンパイアステートビルなどはアール・デコの建築様式で作られました。


アール・ヌーヴォの代表的画家のミュシャを紹介したので、アール・デコの代表的画家も紹介します。


この絵はレンピッカによる「自画像」(1929)です。車に乗った女性はヘルメットと手袋を着けています。控えめな色使いと口紅の赤がコントラストを生みだしています。都会の生活を感じさせる絵ですね。彼女の自画像は自己主張をする自立した女性のリアルなイメージであると言われています。



アール・ヌーヴォとアール・デコ、正反対の美術運動でありながらそれぞれ独自の魅力を持っています。アール・ヌーヴォ調の家具やアール・デコ調の家具で部屋をコーディネートしてみるのもおもしろいかもしれません。






色彩による二次元のオーケストラとその作曲家たち



近代アートの歴史上、絵画は視覚表現の追求とともに現実から遠ざかっていきました。フォーヴィスムにより色の、キュビスムにより形の自由革命がもたらされます。結果として行き着いた先は現実を「再現しない芸術」抽象芸術でした


抽象芸術は現実を模倣する、たとえば肖像画のようなアートではありません。むしろ音楽に近い性質を持ったアートだと言えます。なぜなら、音楽もまた現実を「再現しない芸術」だからです。


ということで今回は抽象芸術を音楽という側面から見ていこうと思います。

音楽=抽象芸術

音楽が現実を再現しないということについてもう少し詳しくお話します。


音楽は非常に抽象的な芸術の形です。なぜなら、直接的に物事を指し示すことができないからです。もちろん、くじらの鳴き声などの自然音を音楽の中にアクセントとして使うことはあるんですが、本質的に音楽はメロディーで絶望や希望といった抽象的概念を表現します


バイオリンの旋律やドラムの振動は互いにハーモニーを生み出し、聞くものの想像力に訴えかけます。たとえば、「海」という題名の曲は海のイメージを頭のなかに呼び起こすかもしれませんが、絵画のように海のイメージを直接目に見せることはできません

音楽的絵画、オルフィスム

そのような音楽の抽象的表現を絵画上で行おうとしたのがオルフィスムの画家たちでした。オルフィスムの名前の由来は竪琴の天才、オルフェウスというギリシア神話の英雄です。


オルフィスムは非再現的な色彩と非具象的な形による音楽的表現が特徴的です。また、キュビスムの発展形として語られることもあるのですが、あくまでキュビスムは形のあるものを描いた具象絵画であったのに対して、オルフィスムは形のない音楽や色を主役として扱うのでキュビスムとは一線を画しました


彼らは音符の変わりに色と形で作曲し、抽象的概念を頭の中に呼び起こします


この絵はオルフィスムの画家、クプカによる「ノクターン」(1911)です。ピアノの鍵盤とその音が発想源となっています。色とりどりの長方形が音楽的リズムを作り出しています。


音楽的抽象絵画の集大成

そのような絵画上での音楽的表現をさらに推し進めていったのがカンディンスキークレーでした。彼らは抽象絵画の元祖的存在ですが、それぞれ独自のスタイルを発展させていきます。


カンディンスキーは色には音があると言います。色の組み合わせは和音や不協和音を生みます。


彼のComposition VII (1913)では形は完璧に抽象化されており、色が和音や不協和音を作り出して、ハーモニーやアクセントを生み出しています。


彼は色の音を聞くためには絵画から意味を排除しなければならないと考えました。なぜなら人は無意識のうちにイメージの中から意味を読み解こうとしてしまい色に目を向けなくなってしまうからです。


カンディンスキーこう考えました。色は魂に直接影響を与える力を持っている。色はキーボードで目はハンマー、魂はたくさんの弦でアーティストはピアニスト。アーティストはキーを叩くことで魂に振動を起こす、と。


カンディンスキーの絵が完全なる抽象表現だとしたら、クレーは具象画と抽象画を組み合わせたような表現をしました。


「セネシオ」(1922)では人の顔に抽象的パターンが描かれています。クレーは、芸術とは「目に見えるものを映し出すのではなく、目に見えないものを見えるようにする」ことと定義し、外観の向こう側の目に見えないリアリティを表現しました。



以上、絵画上での音楽的表現を追求していった画家たちを紹介してきました。彼らの絵を鑑賞するときは何か意味のあるものを探して何も見つかりません。それよりも、ただ色や形の組み合わせを観察して、浮かんでくるイメージや感覚に気持ちを傾けてみてください。色の音が聞こえてくるかもしれません。












抽象絵画が分からない!と思っている人のための抽象絵画講座~



億超えの絵画たち


突然ですがクイズ!この絵の値段はいかほどでしょうか?
  1. 300万円くらい
  2. 3000万円くらい
  3. 3億円くらい
  4. 30億円くらい









答えは4!マーク・ロスコによって1961年に作成されたこの無題作品には26億3000万円の値段がついていますwこんなん小学生でも描けるやん!って思うかもしれません。


他にも、マーク・ロスコではありませんが、キャンバスを切り裂いただけのものや



緑の丸

 クレヨンでグチャグチャ~ってやったやつ

全部1億超えですw これらは抽象絵画と呼ばれるジャンルです。誰にでも描けそうですね。だからこそ高い値段がつくとニュースなどですぐに話題にあがります。なので抽象絵画と言えば高くてよくわからない絵という認識を皆さん持っているかもしれません。


ぼくはそういうイメージを払拭して、みんなにアートを身近に感じてほしい!


ということで、今回は抽象絵画の見方についてぼくなりに説明してみたいと思います!

分からないの原因


そもそも、抽象画は理解不能だ!と言うときに具象画は理解可能だという前提があります。なぜ具象画が分かるのかといえば、ぼくたちの身の回りにあるものを写実的に描くからです。表現が具体的だから分かりやすいわけです。例えば、犬を描くなら犬を見た目通り描くし悲しみを表現するなら、悲しんでいる表情を描くなど。


一方、抽象画はですね。具体的に観察されるモデルが存在しないか、極端に抽象化されています。例えば、怒りや悲しみといった感情が直接描かれていたり、犬が4本の棒で表現されたり。もはや、意味が無い場合もあります。

これこそ、分からないの原因!まず画家が分からせようとしてない


絵画による絵画のための絵画

抽象画は自律した絵画の世界を作り出します。自律した絵画の世界っていうのは、絵画外のモノが主題として描かれるのではなく、線や色などの絵画的要素そのものが主役な世界です。


現実にある果物とか人っていうモチーフは絵画の外のものです。それらを絵画的要素である線や色で平面上に再現しなおす作業が具象画のプロセスです。絵画的要素はここでは脇役で、描かれている対象が大事なわけです。


抽象画は線や色、形や構成を主役とすることで、ピュアな絵画の世界を作り上げています。でも、ぼくたちは3次元の世界に生きているわけで、日常生活で線や色を独立したものとして認識することがありませんね。これも抽象画が分からない理由です。


考えるな感じろッ!

ということで、抽象画ってそもそも分かりようがないんです。抽象画が分からない?その通りです。頭で考えても答えはありません。意味を考えるのではなく、線や色が作り出すリズムやバランスなどを心で感じるってのが抽象画の楽しみ方です


空の雲を眺めたり、海の波を眺めたりして綺麗だなーって思うあの心です。そういうものに対して分かろうって思ったことは無いと思います。なぜなら、意味が無いから。それと一緒です。


これはもはや感性の問題なので、称賛しようが批判しようがそれは人それぞれです。高額な値段に惑わされず、自分がどう感じるかを大切にしてください。


抽象絵画の見え方が変わりましたか?








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