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ポスト印象派の四天王に見る印象派のその後



1880年代に入ると、印象派の画家たちの結びつきは薄くなり、1886年の印象派展を最後に印象派時代も終わりを迎えます。そして、考え方の違いから印象派を軸として徐々にアートスタイルが枝分かれしていきます


その基盤を作り上げたのがポスト印象派と呼ばれる画家たちです。ポストというのは脱と捉えてもらっても構いません。


その中でも代表的な画家たちがセザンヌゴーギャンゴッホスーラの4巨匠です。彼らは技法も理念も独創的で共通点はないのですが、ポスト印象派という言葉で一括りに説明されます。彼らはそれぞれ印象派を違う方向に大きく発展させていき現代美術の礎を作っていきました

セザンヌの構造的視点


セザンヌは自然の中に不変的な構造がありそれを分析することで本質がつかめると考えました。印象派の画家は移り変わる光に注目しましたが、セザンヌは変わらない構造に着目したのです。そして、形や空間の捉え方に対して新しい視点を生み出します。後々彼のスタイルはピカソのキュビスムにつながっていきます。


上の絵はセザンヌによる「サント・ヴィクトワール山」(1904)。「自然を円筒、球、円錐によって扱いなさい」という彼の考えに基づき自然がブロックを組み合わせるように構築されています。ゆえに彼の絵は構築的だと言われます。

ゴーギャンの抽象と具象



ゴーギャンははっきりとした輪郭線、鮮やかな色の平塗り、単純化した形が特徴的な総合主義を生み出します。総合主義の考え方は、主観と客観を統合して画家の意図を絵の世界で表現しようというものです。印象派は目に見える世界をいかに見たままに写しとるかに着目していました。この後総合主義は目に見えない抽象概念をテーマに扱う象徴主義に受け継がれていきます。


彼の「黄色いキリスト」(1889)では目に見える風景や人物と現実世界にはいないキリストが画面に総合されています。

ゴッホの表現の爆発


ゴッホにとって色は感情を表すためのものであり、印象派のように光を再現するためのものではありませんでした。内面的感情が風景などを歪めてしまうような彼独特の表現は、感情を強調する表現主義や色彩を自由に使うフォーヴィスムなどに影響を与えます。


「星月夜」(1889)では感情の大きなうねりが画面いっぱいに反映されています。

スーラの科学的色彩表現


スーラは印象主義をさらに深めていき新印象主義を作り出します。彼は目の前の光をあるがままに描くという感覚的な印象派とは違い、科学的に色彩の持つ効果を分析し計画的に画面を構成します。たとえば、暖色系の色は陽気さを表すとか寒色系の色は悲しさを表すとか。後々その絵画に対する理論的アプローチがフォーヴィスムやキュビスムなどにつながります。


「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1884-1886)では点描によりシステマティックに色彩をコントロールしています。


ポスト印象派の共通点

といったように全員ばらばらで共通点がないように思えるのですが根本的な考えには共通する部分があります。


印象派の画家たちは真実は一瞬の光にあるとし身の回りのものをあるがままに描こうとしました。一方、ポスト印象派の画家は真実は不変であるというスタンスを取り、概念や感情を色、線、かたちを自由に使って表現しようとしました


ここから本格的に現代美術の時代に突入して難しくなるので少しずつ解説していこうと思います!








浮世絵の、ダイナミズムと、印象派



今まで印象派について書いてきましたが、印象派を語るのに浮世絵の存在を無視することはできません。浮世絵はモネ、マネ、ルノワール、ドガを始めとした印象派の画家たちに大きく影響を与えます


浮世絵が彼らに知られるきっかけとなったのは19世紀後半(1855年,1867年, 1878年)、パリを中心に開催された万国博覧会でした。そこで浮世絵を中心とした日本の美術工芸品が大々的に紹介されたのです。日本はずっと鎖国していたので、それまで浮世絵が海外で見られることはありませんでした。


今まで見たこともない浮世絵に感動した印象派の画家たちは積極的にその構図や技法、色使いを取り入れました

広重の視点と構図


それでは、どのように影響を受けているのか一つ例をあげようと思います。


これは歌川広重による「丸清版・隷書東海道五十三次」(1847-1851)の「大津」という作品。旅人や商人の日常風景を写しとったもので一見平凡な絵に見えます。しかし、注目すべきは視点と構図!


広重は俯瞰的な視点で通りを描いています。また、斜めのラインが視線を左下から右上に誘導します。さらに全景がフレームに切り取られています。というのは、一番下の男が腰から上しか描かれてないっていうことです。これらの要素が画面に活気をもたらしています


このような浮世絵的表現スタイルは印象派の絵に継承されます。



こちらはドガの「ダンス教室」(1875)。バレリーナの練習風景を描いたものです。


すぐに気付く点として斜めの構図が広重の絵と共通しています。さらに、少し斜め上の視点から風景が描かれています。また右上のダンサーが絵の枠に切り取られています。


これらの表現スタイルが画面を動的なものにしています。ドガは一瞬の動きを写真のように写しとったような絵画を目指しました。彼はその動きを強調するために浮世絵のテクニックを積極的に使っていったのです


ちなみに、ドガも印象派を代表する画家なのですが目の病気のせいで、他の印象派の画家のようにあまり外に出て作業することはありませんでした。


彼以外にも多くの印象派の画家が浮世絵から大きな影響を受けています。印象派は日本と深い繋がりを持っているのです。








新古典主義から印象派の始まりまでざっくり解説(後編)



前編はこちら

マネによるイノベーション

ドラクロワのロマン主義的な芸術手法。クルーベの写実主義的な姿勢。それらを融合させ印象派への扉を開いたのがマネでした。


上の「アブサンの酒飲み」という作品では当時のパリっ子の日常風景を描いています。それとナポレオンの絵と比べてグラデーションによる立体感の強調といった伝統的手法も取られていません。

保守派vs急進派

と、このように新しいスタイルの絵画を描き上げたマネだったのですが、保守的なアカデミーはサロンへの出展を認めずはねつけます。当時はアカデミー認可の展覧会のみが作品を発表できる場所でした。


でも、彼は一人じゃありませんでした。彼と同じように新しいスタイルを試して門前払いされた画家がたくさんいました。


守派vs急進派の間で火の粉がバチバチしている構図です。そんな状況を見たナポレオン三世は「このままだと暴動とかおきんじゃねぇの…」と危惧し、1863年にアカデミーにより否定されたアートのための展覧会(Salon of the Rejected)を特別に開きます。


どっちが正しいのかは民衆に決めてもらおうぜっていうスタンスです。まぁ、民衆はそんなにアートに興味があるわけでもなかったのですが。


しかし、結果として若くて前衛的な芸術家たちはアカデミー以外の作品発表の場所を手に入れました。そこで、マネの「アブサンの酒飲み」は注目を集め、後に印象派と呼ばれる画家たちに大きな影響を与えます。


つまり、マネはロマン主義や写実主義といった芸術のスタイルから印象派へと橋渡しした第一人者なのです


印象派を支えたもう一人の人物

1863年は現代美術において飛躍の年でした。しかし、もう一つ特筆すべきことがあります。それは、フランスの詩人、作家、芸術批評家のボードレールによるThe Painter of Modern Lifeが出版されたのです。ボードレールは「惡の華」で最近注目を集めてますね。


テクニックや姿勢などでドラクロワやクルーベが印象派の画家達に影響を与えたとするならば、ボードレールは理論面で大きく貢献しました


彼は主張しました。現代のアートというものは過去についてではなく現代生活を描くものであるべきであり、「今・ここ」という日常から普遍的なものを抽出する作業こそがアートの本質的な目的であると。


そしてそのためには、外に行き我々の日常を観察し、思考を巡らせ、感じて、記録することが大切だと説きました。


このボードレールの主張があったからこそ、マネはアカデミーを無視して自分のスタイルを貫くことができたのです。



以上、印象派までの大きな美術史の流れを2回にわけて解説しました。今後はこれ以降の現代アートの流れを中心的に書いていきます。


ここまでの流れを踏まえて、ことごとくルールを壊した印象派と現代美術の始まりを読んでみてください。さらに理解が深まると思います!




ことごとくルールを壊した印象派と現代美術の始まり



意味のわからない現代アートと比べて、このモネの睡蓮に代表される印象派の絵こそ真の芸術だ!って思う人は多いんじゃないでしょうか。


今でこそ確固たる芸術的地位が与えられている印象派の絵ですが、実は当時の時代の基準からしたら印象派の画家たちは芸術界のはみ出し者でした。


印象派の画家たちは当時の美術の常識を次々壊していきます


当時の常識
  • 主な題材は神話、宗教、歴史など
  • 作業場所は屋内
  • ルネサンスの絵画技法が伝統だった

Break the rules!!



印象派の画家にとっての題材は身の回りの風景でした。ピクニックや散歩をしている人たちなど、当時の常識からしたら芸術的価値のないものを印象派の画家たちはキャンバスに描きました。


また、彼らは主に野外で絵を描きました。もちろん印象派以前の画家も野外に行ってスケッチなどすることはありましたが絵の作成に向かうのは屋内の作業場でした。しかし、チューブ入り絵の具や野外イーゼルの発明により画家は屋外で作業することができるようになったのです。


さらに、ダビンチのモナリザのように薄い絵の具の層を重ねていく方法で立体感を出す、といった伝統的な方法を彼らは採用しませんでした。


印象派の画家は厚く、短く、アクセントの効いた筆使いで色彩豊かに光をスピーディーに写しとります。野外では光がすぐに移り変わり色がすぐに変わってしまいます。伝統的な手法は印象派の画家たちにとってあまりにも時間がかかりました。


彼らにとっての興味関心は伝統でも歴史でもなく、彼らがリアリティを感じる今生きている時代そのものでした。だからこそ野外に出て自分たちの身の回りを観察しその場でリアルな色彩を忠実に写しとることにこだわったのです。


彼らにとっての現代美術


しかし、彼らの試みは当時の美術界から酷評を受けました。なぜなら、彼らは何年も続いてきたルールや常識をことごとく壊してしまったからです。


今でこそ美術史上で印象派という名前を与えられて、絵画市場では高額で取引される彼らの絵ですが、彼らにとっては「今・ここ」を写しとる現代美術だったのです。









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