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ダミアン・ハーストのグロテスクな表現とポストモダンのアートのあり方



縦に切り裂かれたサメがホルマリン漬けにされているこの水槽。ダミアン・ハーストによる「生者の心における死の物理的な不可能さ」(1991)という有名なアート作品です。


このようにグロテスクだったりバイオレントな表現でショックを与えるやり方はポストモダンにおけるアートの一つの傾向です。


ということで今回はポストモダンのアートを見ていきます。

ポストモダンとは

まずポストモダンとはなんぞやってところからなんですが、基本的にポストっていったら後や脱を意味します。


なのでポストモダンとはモダンを脱したアートの時代のことです。


モダンというのは近代という意味でここでは近代アートを指しています。


だいたい時代にして1800年後半の印象派から1900年代後半ミニマリズムまでの範囲を総称して近代アートと呼ぶようです。


そしてその後から今までの時代をポストモダンと言います。


特徴はキュビスムとかシュールレアリズムとか、何々イズム(主義)という大きな美術運動が見られなくなったこと


ポストモダンのアーティストはそのようにカテゴライズされるのを嫌い、それぞれが独自のアートスタイルを発展させていきます。


それでも近代アートの影響は大きく残っていて近代アートの哲学やテクニックが彼らの作品ではミックスされていたりします


他にもモダンとポストモダンの違いは、、、


  • モダンは伝統に反発するが、ポストモダンは何にも反発しない
  • モダンはシステマチックで秩序だっているが、ポストモダンはゴタゴタでカオス
  • モダンは未来に希望を持っていたが、ポストモダンは未来に疑問を投げかける
  • モダンは真面目な冒険家だが、ポストモダンは遊び心のある実験家

と、大分雰囲気が違います。モダンでは大きな派閥に属して熱心にアートに打ち込むイメージですが、ポストモダンではそれぞれのアーティストがやりたい放題やってる感じです。

アートとモラル

一見バラバラでまとまりのないポストモダンにおいても大きな傾向性は存在するようです。


それが、冒頭で紹介した作品に代表されるようなショッキングなアート作品です。


このタイプのアーティストは挑発的だったりショッキングな作品によりアートとモラルの関係性に疑問を投げかけます


アートとモラルの関係性は古くから議論されている美学における問題です。


たとえば原爆のキノコ雲の写真にはある種の美しさがあります。しかしモラル的にこのキノコ雲の写真をアートとみなすことは良いのでしょうか。


アートとモラルは切り離して考えるべきなのか。それともアートはモラルに従うべきなのか。


伝統的に見ると、アートはモラルと密接な関係を持っていました。美しいとされるものは道徳的にも良いものであるという関連付けが普通だったからです。


しかし、近代に近づくにつれそのような価値観に対して疑問が投げかけれます。



ダミアン・ハーストの「千年」(1990)はおぞましい作品です。


ガラスのケースの中には牛の頭と砂糖、ハエとウジ虫、そして殺虫灯が置かれています。


ハエは牛の頭に卵を植え付け、生まれたウジ虫は牛の肉を栄養源にしてハエに成長していきます。そして飛び回るハエは殺虫灯にぶつかって死にウジ虫の栄養となります。


そのようなライフサイクルがガラスの箱の中で再現されます。




相当グロい作品ですが、生と死、誕生と腐敗といった主題を取り扱ったアート作品であることは確かです。


また、四角い長方形や正方形の箱といったミニマリズムちっくな装置、砂糖や殺虫灯といった日常のものをそのまま持ち込むダダイズムのレディメイドの考え方、アイデアこそ大事だというコンセプチュアル・アートの態度など近代アートの影響が見られます。



こんな感じで人びとを挑発しショックを与える傾向が今のアートにはあるようです。


賛否両論あると思いますが、確かにこの方法は一度見たら忘れられない強烈な印象を見るものに与えます。そのような点でこの方法は個人が競争の激しいアートの世界で自らをアピールして生き抜く一つの方法なのかもしれませんね。







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