ダミアン・ハーストのグロテスクな表現とポストモダンのアートのあり方



縦に切り裂かれたサメがホルマリン漬けにされているこの水槽。ダミアン・ハーストによる「生者の心における死の物理的な不可能さ」(1991)という有名なアート作品です。


このようにグロテスクだったりバイオレントな表現でショックを与えるやり方はポストモダンにおけるアートの一つの傾向です。


ということで今回はポストモダンのアートを見ていきます。

ポストモダンとは

まずポストモダンとはなんぞやってところからなんですが、基本的にポストっていったら後や脱を意味します。


なのでポストモダンとはモダンを脱したアートの時代のことです。


モダンというのは近代という意味でここでは近代アートを指しています。


だいたい時代にして1800年後半の印象派から1900年代後半ミニマリズムまでの範囲を総称して近代アートと呼ぶようです。


そしてその後から今までの時代をポストモダンと言います。


特徴はキュビスムとかシュールレアリズムとか、何々イズム(主義)という大きな美術運動が見られなくなったこと


ポストモダンのアーティストはそのようにカテゴライズされるのを嫌い、それぞれが独自のアートスタイルを発展させていきます。


それでも近代アートの影響は大きく残っていて近代アートの哲学やテクニックが彼らの作品ではミックスされていたりします


他にもモダンとポストモダンの違いは、、、


  • モダンは伝統に反発するが、ポストモダンは何にも反発しない
  • モダンはシステマチックで秩序だっているが、ポストモダンはゴタゴタでカオス
  • モダンは未来に希望を持っていたが、ポストモダンは未来に疑問を投げかける
  • モダンは真面目な冒険家だが、ポストモダンは遊び心のある実験家

と、大分雰囲気が違います。モダンでは大きな派閥に属して熱心にアートに打ち込むイメージですが、ポストモダンではそれぞれのアーティストがやりたい放題やってる感じです。

アートとモラル

一見バラバラでまとまりのないポストモダンにおいても大きな傾向性は存在するようです。


それが、冒頭で紹介した作品に代表されるようなショッキングなアート作品です。


このタイプのアーティストは挑発的だったりショッキングな作品によりアートとモラルの関係性に疑問を投げかけます


アートとモラルの関係性は古くから議論されている美学における問題です。


たとえば原爆のキノコ雲の写真にはある種の美しさがあります。しかしモラル的にこのキノコ雲の写真をアートとみなすことは良いのでしょうか。


アートとモラルは切り離して考えるべきなのか。それともアートはモラルに従うべきなのか。


伝統的に見ると、アートはモラルと密接な関係を持っていました。美しいとされるものは道徳的にも良いものであるという関連付けが普通だったからです。


しかし、近代に近づくにつれそのような価値観に対して疑問が投げかけれます。



ダミアン・ハーストの「千年」(1990)はおぞましい作品です。


ガラスのケースの中には牛の頭と砂糖、ハエとウジ虫、そして殺虫灯が置かれています。


ハエは牛の頭に卵を植え付け、生まれたウジ虫は牛の肉を栄養源にしてハエに成長していきます。そして飛び回るハエは殺虫灯にぶつかって死にウジ虫の栄養となります。


そのようなライフサイクルがガラスの箱の中で再現されます。




相当グロい作品ですが、生と死、誕生と腐敗といった主題を取り扱ったアート作品であることは確かです。


また、四角い長方形や正方形の箱といったミニマリズムちっくな装置、砂糖や殺虫灯といった日常のものをそのまま持ち込むダダイズムのレディメイドの考え方、アイデアこそ大事だというコンセプチュアル・アートの態度など近代アートの影響が見られます。



こんな感じで人びとを挑発しショックを与える傾向が今のアートにはあるようです。


賛否両論あると思いますが、確かにこの方法は一度見たら忘れられない強烈な印象を見るものに与えます。そのような点でこの方法は個人が競争の激しいアートの世界で自らをアピールして生き抜く一つの方法なのかもしれませんね。







地球がキャンバス!?ロバート・スミッソンのスパイラルジェティ



ユタ州のグレートソルト湖にある渦巻き状の堤防。実はこれはただの堤防ではなくてアート作品なんです!


ロバート・スミッソンの代表的作品「スパイラルジェティ」(1970)はランド・アートという岩、土、木、鉄などの自然の素材を使って大地に展開されるアートジャンルに属します。


今回は「スパイラルジェティ」をサイトとエントロピーという概念から読み解いていきます

サイトスペシフィックなアート

まずサイトという概念について。サイトというのは特定の野外に置かれた作品のことを指します。


サイトのポイントはアート作品がある特定の場所に大きく依存するということです。


たとえば、「スパイラルジェティ」のあるユタ州グレートソルト湖は潮の満引きで水位が変わるのですが、作品製作時は記録的に水位が低かったため、「スパイラルジェティ」は数年に一度のタイミングでしか湖面にあらわれないそうです。


そしてグレートソルト湖は名前の通り塩分濃度が海水より高いという特徴も持っています。そのため塩湖特有のバクテリアが水面を赤く染めるとともに、徐々に作品が分解されていきます。


これらの効果は偶然ではなく、全てアーティストによって計画されています。つまり、「スパイラルジェティ」はグレートソルト湖じゃないと成立しないアート作品なんですねー。

衰退しゆく運動エントロピー

また、芸術作成に関してロバート・スミッソンはエントロピーという概念にこだわりを持っていました。


エントロピーは外界とのやりとりの無い閉鎖されたシステムの中ではすべてのものは徐々に衰退していくという概念です。


たとえばバナナをほったらかしにしてたらどんどん黒くなっていきます。黒くなり始めたら黒くなる一方でいきなりフレッシュなバナナに戻るということはありえません。これもエントロピーの現れだと言えます。


「スパイラルジェティ」の始まりと終わりを融合する渦巻き形や、微生物により分解され水没していく設定はロバート・スミッソンによるエントロピーの究極の表現なのです。




個人的には赤い海と渦巻き模様の組み合わせが原始的な世界を彷彿とさせて神秘的だなぁと思います。


1970年に制作されたこの作品。今でも見ることができます。詳細はRobert Smithson, Spiral Jettyよりどうぞ










表現の終着点としてのミニマリズム



ドナルド・ジャッドの「無題」(1972)というこの作品。内側が赤い鉄の箱、以上!それ以上でも以下でもねぇっていう潔よさ。


それがミニマリズムの本質だったりします。


ミニマリズムは1960年から1975年あたりまでアメリカで盛んになった美術運動です。抽象表現主義の感情表現やポップアートの世俗的な表現とは対照的で、ストイックに作品からひたすら要素を取り除きまくったシンプルな作品が特徴的です。


今回はそんなミニマリズムについて。

全てを取り払ったら物質だけが残った


伝統的な彫刻は木や鉄などの素材を使い何かの形を模倣するものでした。


しかし、ミニマルアーティストはこう考えます。もし彫刻家が木や鉄か何かを作るのなら、それは木や鉄から作られたもの以上でも以下でもない。


オブジェは何かの形を真似る必要もないし、アーティストの感情や思想が入る必要もない。そして、アーティストが作る必要もない。


なので、鉄の箱を誰かに作らせて美術館に置いてもらうっていう手法をとったりします。もはやアーティストはただ制作を計画し、制作を発注し、見守るだけっていうスタンス!


その狙いは表現や感情、主題など、製作者の影をアート作品から取り除くこと。


現にドナルド・ジャッドの作品は大体「無題」です。


そのことにより鑑賞者は製作者の意図に惑わされることなく、純粋に目の前のオブジェを観察することができます


ここまできたら好きか嫌いかっていう個人の判断基準だけが正義です。


そういう意味ではミニマリズムって一番わかりやすいアートだったりするんです。


「意味はありません。目の前にある物質が全て!あるがままを見てくれ!」っていうミニマリズムはとても単純明快

イズムの終了

でも、ここまでくるとなんでも芸術になるやんっていうツッコミが入りそうです。


たとえば、空のティッシュ箱に適当に「無題」っていうタイトルつけて美術館においたらそれはアートなんでしょうか??そこにはなんの意図もありません。ティッシュ箱をただ見てくれ!っていう話です。


さすがにここまで行くとやり過ぎですw


つまり、ミニマリズムは芸術が芸術でなくなるギリギリのライン上での表現なんです


ミニマリズムによってもたらされた「これ以上行くとアートは終わってしまう」という地点で現代美術におけるモダニズムは終わりを迎えます。


そして1970年代以降、イズム(主義)という美術運動も影を潜め、様々なアーティストが主義に縛られず独自の方法でアートを制作していくアート戦国時代的な時代に突入します。


それが今です!


そういう意味では、ミニマリズムが100年にわたり展開された「アートにおける表現の追求」という旅のゴールだったと言えます。


表現することを極めたら表現しないことに行き着くっていう。もはや悟りの境涯ですねw









アートの大量生産!ウォーホルのファクトリーとポップアート



20世紀を代表するハリウッドスター、マリリン・モンローのイメージがひたすら繰り返されるアンディー・ウォーホールの「マリリン」(1967)はポップアートの代名詞的作品です。


そしてポップアートは現代アートの代表的芸術運動。そんなポップアートに今回は着目します。

ポップアートとは

ポップアートはだいたい1956年から1970年の間アメリカで流行ったアートスタイルで、主題として大衆社会や消費社会を扱っているのが特徴です。


その根本的な思想はアンディー・ウォーホールの以下の言葉に集約されています。


ポップアートはあらゆるひとに開かれている。アートが選ばれた少数者のためだけにあるべきだとは思わない


この言葉の背景にはあらゆるひとに開かれていなかった抽象表現主義の存在がありました。


ポップアート以前のアメリカではポロックやロスコの抽象表現主義が隆盛を極めていました。彼らは内面的な感情を抽象的にキャンバスに描きます。



しかし、抽象表現主義の構図の中心がないオールオーバーな画面構成や抽象的な表現はアートを難解なものにして、一般大衆とアートの世界の間に壁を作ってしまう一面もありました。


そんな抽象表現主義に対してあまりに内向的すぎると批判したのがポップアートでした。


ポップアートからすると芸術は個人的な感情などを表すものではなくて、もっと表面的でみんなが共有するイメージを提供するものでした。


そのため、ポップアートの芸術家たちはポスターや写真、漫画など一般の人に馴染みのあるメディアからイメージを切り出し大衆文化の象徴としてアートの形で表現します。


ポップアートは俗っぽいポピュラーカルチャーと高尚なアートという相容れないものを両立させ、美術と生活のボーダーラインを取り払ったのです。

アンディー・ウォーホールとファクトリー

ポップアートのスーパースターといえばアンディー・ウォーホールです。


彼は元々商業画家でイラストレーションを作成していたのですが、32歳のときにファインアートの世界に移り、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を制作していきます。


彼はアート作品を工場で大量生産するかのように制作していくことから自分のスタジオを「ザ・ファクトリー」と呼び、アート・ワーカーと呼ばれるスタッフを雇って機械的に作品を量産していきます


そんな彼の狙いはアーティストとアートを切り離すことでした。あえて彼自身の手を加えないでアートを制作することでアートからアーティストの影を消し去ったのです。


一方、抽象表現主義では画家の内面的な感情が絵画で表現されており、アートとその作成者であるアーティストは切っても切り離せない関係でした。


しかし、それはアーティストの内面にアートの真の意味が隠されているということであり、アートを理解できない大衆と理解できるアーティストとその仲間たちといったふうに境界線を両者の間に引いてしまうものでもありました。


その点でファクトリーによる大量生産はその二つの境界線を曖昧にしてしまう画期的な取り組みだったのです。


アンディ・ウォーホルのすべてについて知りたければ、表面だけを見ればいい。


アンディ・ウォーホルのこの言葉の通り、彼の作品こそがアンディ・ウォーホルの全てあって、そこに隠された意味なんてありません。アートからアーティストの感情や思想は全て取っ払われているからです


そうやって出来上がったアートはアーティストの所有物ではなく、みんなのものとなります。まるで大量生産されたコカ・コーラが多くの人に愛されるように。


「全ての人に開かれたアートを」というポップアートの考えを彼は大衆イメージの大量生産という方法でクールに体現したのです。


そんなウォーホルの作品は通販なんかで安く手に入るので部屋のアクセントとして飾ってみてはどうでしょうか。美術館にいかなくてもアートを気軽に楽しめます。それがポップアートです。












感情を経験する場としての絵画と抽象表現主義




キャンバスに荒々しく叩きつけられた色、色、色。画面は色のカオスで覆われています。一見狂人の描いた絵です。しかし実はこの絵、アメリカ美術史始まって以来の天才だと言われた大芸術家ジャクソン・ポロックによって描かれたものです。


なんと彼の作品は100億単位で取引されてたりします。ゴミのような絵が高額で取引されるなんて全く意味がわからないっていうのが普通の感覚だと思います。そうやってアートに対する苦手意識が生まれてしまうんですねーー。


今回はそんな難解な抽象表現主義の絵画をできるだけわかりやすく説明していきます。

抽象表現主義とは

第二次世界大戦の戦禍から逃れるためヨーローッパから多くの芸術家がアメリカに亡命し、アートの中心はパリからニューヨークに移ります。そこで1940年代後半から1950年代にかけて流行ったのが抽象表現主義です。


抽象表現主義はその名の通りゴッホのような感情の荒々しい表現と、現実を再現しない抽象的イメージが特徴的です。


また、イメージが画面全体を均一に覆うオールオーバーも重要な要素です。画面に中心や背景、前景などはありません。鑑賞者はどこを見ていいかわからなくなり、細部ではなくて全体を見ようとします。そのことより絵画に包みこまれるような印象を抱かせます。


ひたすら画面が巨大なことも抽象表現主義の特徴です。人より大きなイメージはそこに独自の空間を作り出します。このことも鑑賞者に絵画の中にいるような感覚を与えます。


これらの二つの要素、オールオーバーと画面の巨大さは絵画を見るものではなく経験するものに変えます


そんな抽象表現主義は手法によりアクション・ペインティングとカラーフィールド・ペインティングの二つに分かれます。

ポロックとアクション・ペインティング



アクション・ペインティングの基本的な考え方は出来上がった絵よりも、描く行為そのものが大切であるというものです。結果じゃなくて過程でしょってやつです。


アクション・ペインティングでは絵画の定義が拡張されており、絵画とは描きあがったものだけではなく、製作中の作家によるアクションの軌跡、場であるという解釈がなされます。


アクション・ペインティングといえばジャクソン・ポロックです。


ポロックは床の上にキャンバスを敷き、その上から筆につけた絵の具を叩きつけるようにして絵画を制作します。もはや筆とキャンバスは触れずに、絵の具は空中に放たれキャンバスの表面に跳ね散らかり色彩のパターンを形成します。


彼は自らのアクションを画面に投影することで複雑な感情をダイレクトに表現しました。そのようなむき出しの感情は巨大なキャンバスの全てを覆い尽くし見るものを圧倒します。


アクション・ペインティングはシュールレアリズムのオートマティズムという手法に強く影響を受けています。オートマティズムとは無意識の状態で絵を描くというスタイルです。


アクション・ペインティングにおいて絵の具の跳ね返りなどは計算できるものではなく、偶然性が生み出す色のパターンは意識の干渉を受けません。そのような意味では無意識の生み出す絵画であるとも言えます。


ロスコとカラー・フィールド・ペインティング


一方、カラー・フィールド・ペインティングでは、均質な色が平面的に広がる画面が特徴的です。一言で言っちゃえば色の壁です。


カラー・フィールド・ペインティングと言えばロスコ


私は悲劇、忘我、運命といった人間の基本的な感情を表現することだけに関心があります。」という発言の通りロスコは色彩で感情を表現します。


しかし一方で「大切なのは色彩ではなく寸法だ」という言葉も残しており、彼はイメージそのものよりも絵画の巨大さによる感情の体験を重視しました。


上の写真ではロスコの絵画に向き合う人びとが写されています。彼らは絵画から意味を読み出そうとしているのではなく絵画を経験しています。そう、まるで教会で賛美歌を聞くクリスチャンのように。




と、二つの抽象表現主義のスタイルを見てきましたが、どちらにとってもオールオーバーと絵画の大きさが作り出す経験という要素は必要不可欠なものです。


なので、PC上でこれらの絵画を見てもあんまり意味はありません。PCモニターでは絵画の大きさが排除されているので抽象表現主義の絵画はポテンシャルを全く発揮できていないのです


だからこそ、ネット上で「こんな絵誰にでもかける」といった批判がなされたりするんですね。抽象表現主義はもしかしたら現代美術の中で最も不当な扱いを受けているのかもしれません。







シュールレアリズムと混沌への扉を開ける2つの手法



死体がベッドの上に横たわり、その傍らには音楽を楽しむ暗殺者が佇んでいます。彼の死角には二人の警官が武器を構えチャンスを窺っており、窓の外からは3人の目撃者が部屋の中を覗きこんでいます。


マグリットの「暗殺者危うし」(1927)という絵は一見写実的に見えますが、なにか現実離れした浮遊感を鑑賞者に感じさせます。微妙におかしい点がたくさんあるからかもしれません。なぜ網と棍棒?音楽を楽しんでいるのはなぜ?3人の男たちは誰?この絵を見ると不思議で不気味な夢の中のような感覚を抱きます。。。。


今回はそんな夢や無意識を描くシュールレアリズムの世界を紹介します。

シュールレアリズムとは

みなさんもシュールという言葉を日常的に使ったり聞いたりすることがあると思います。普通ではありえないような組み合わせに対してシュールだと形容することがあるようです。


そんなシュールという言葉の使われ方の通り、シュールレアリズムの画家たちはありえないものを組みあせたような表現をします。


本来あるべき場所や環境と無関係な状況に物や人をおいて、不安な雰囲気、不条理で謎めいた超現実的な空間を生む方法はデペイズマン(配置転換)と呼ばれます。


マグリットによる「共同発明」(1935)では魚の頭部と人間の下半身が融合しており、浜辺に打ち上げられています。まさにデペイズマンです。


しかし、シュールレアリズムの画家にとっては彼らの目的を達成するための一つの手段にすぎませんでした。


彼らの目的とは何か。


それは現実を超えたリアリズムを捉えることでした。


彼らはダダイズムの非合理や無秩序という精神を受け継ぎ、それらにコントロールされない夢や無意識の世界に現実を超えたリアルを見出します


合理的、科学的なものにしばられない夢の世界。理性や意識を持ってはアクセスできない無意識の世界。混沌が支配するそれらの世界に踏み込みそこからイメージを生み出す方法は二つあります


夢を再構築するダリ的表現


一つの方向はリアルに描かれた物や人をあり得ない組み合わせで配置することで夢や無意識の世界を表すといった方法でした。


ダリの「記憶の固執」(1931)では溶けた時計が木や机にかけられています。時計がこのように溶けることなんてありえません。非日常的で夢の中のようです。合理性をはかる基準である時間を表す時計が溶けているのは非合理を絵に描いたようなものであると言えます。


また、ダリはイメージを写実的に描くほどそれらのあり得ない組み合わせが大きなインパクトを持つと考えました。


写実+非日常空間=ダリ的表現です。


無意識のままに描くミロ的表現


二つ目の方向は画家自身が無意識の状態で絵を描くという方法です。ミロによる「ハーレクインのカーニバル」(1924-25)は彼自身が空腹の中で見た幻想をスケッチしたものです。


シュールレアリズムの画家には眠りながら絵を描いた人もいたようです。しかし、一般の画家にはそんな真似はできません。彼らは例外的でした。一般的にはオートマティズムという方法が取られます。


オートマティズムとは意図的に偶然の要素を利用して意識下のイメージや連想を引き出そうとする方法です。


たとえば、凸凹のある素材の上においた紙を鉛筆などでこすって、そこに現れた素材表面の質感が作り出す予期しない形をイメージとして利用するフロッタージュ。


絵の具をつけた紙に別の紙を被せてこすり、出来上がった偶然の模様をイメージとして利用するデカルコマニーなど、ぼくらが美術の授業でならった懐かしい手法の数々がオートマティズムの例です。


そんな偶然から出来上がったイメージに対し、「壁の木目が人の顔に見える的」連想をして無意識を表現します。


エルンストによる「沈黙の目」(1943-44)ではデカルコマニーが使われているようです。真ん中の模様ですかね。




以上見てきたように、二つの方法によりシュールレアリズムの画家たちは現実を超越したリアリティを捉えようとしました。


本当にこれらの方法で夢や無意識の世界が表現できるのかは謎ですが、少なくとも不気味で魅力的な非日常空間をつくり上げることには成功していますね。









アートをぶち壊せ!「無駄無駄無駄」のダダイズム


この絵はルネサンスの巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチによる「モナ・リザ」(1503-1519)。ではなく、デュシャンによる「L.H.O.O.Q」(1919)です。ダンディなひげが書き足されています。


「これが芸術?ただのおふざけじゃないか」と思うかもしれません。そうです、ただのおふざけです。しかし、そのおふざけこそがダダイズムという美術運動を象徴的に表しています。


ということで、今回はダダイズムについて説明します。

ダダイズムって何?

ダダイズムは「アンチ」という一言に集約されます。ダダの芸術家たちは今まで正しいと思われてきた全ての価値観を否定します。


デュシャンの「L.H.O.O.Q」は過去の美的価値や伝統の否定を意味しています。タイトルのLHOOQも言葉遊びで、フランス語の同音異句に直して意訳すると「彼女のお尻は熱い」つまり、欲情しているという意味になります。彼のおふざけには「みんなアートを真剣に捉えすぎだ」とメッセージが込められているのです。


これだけ聞くとダダイズムは非常に反社会的で危険な人びとの集まりのように見えます。あの大巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を公然とディスってるわけですから。なぜ彼らは既製価値を否定しようとしたのでしょうか


ダダをもっと深く理解するためにそのルーツを見てみましょう。

戦争の落とし子ダダ

ダダイズムは1916年第一次世界大戦の渦中、中立国スイスのチューリッヒに集まった芸術家たちの間で生まれました。同じ頃ニューヨークでも同じような運動が起こります。


戦争による恐怖や不条理さが同時多発的にダダという運動を各地で引き起こしたのです。


19世紀末、西欧社会は産業革命や機械文明によってもたらされた豊かさに繁栄と希望を見出していました。


しかし、そのような合理性や規律の追求の果てには戦争という大きな暗闇がぽっかりと口を開いて待っていたのです。


今まで信じていたのに裏切られた。そのようなムードが人びとの間で漂い始めます。社会に対する悲しみの心は怒りとなり芸術家の間で噴出しました。


何が合理性だ。何が規律だ。今まで積み上げられてきた価値観の先に戦争が待っていると言うのならば、全て否定してやる!


そのような信条のもと、ダダの芸術家たちは非合理さや無秩序をアートの形で表現します。


たとえば、マン・レイの「贈り物」(1921)ではアイロンに画鋲が着けられており、本来の服の皺を伸ばすというアイロンの価値が否定されています。むしろ服を切り裂いてしまうといった非合理性が皮肉をきかせています。


また、既製品であるアイロンと画鋲をただ組み合わせただけのオブジェはレディメイドという考えに基づいており、作品は一から創造されなければならないという今までの既成概念も壊しています。


また、ダダイズムは偶然性というものも重視しました。たとえば、小さく切った新聞記事をごちゃ混ぜにして並べた詩や、紙を落としていき偶然出来た形を作品とするなど。もはや芸術とも美とも関係ありません


しかし、ダダは今までの全てを否定することで芸術の定義を塗り替え、新しい道を指し示しました。ダダイスム自体は短命に終わってしまうのですが、後にシュルレアリスムやポップアート、パンクアートやコンセプチュアルアートなどに大きな影響を与えます。


アートを否定する立場であったダダイズムが今では美術史に組み込まれ、重要な位置を占めているというのも皮肉なものですね。






これまでのまとめ:20世紀前半の連続的イノベーションを振り返る



今回は今までの現代アート史に関する投稿の内容をざっとまとめ、アートの歴史を塗り替えていった数々のイノベーションを振り返っていきたと思います。

アートのブレイクポイント

自然を模倣することは芸術の大前提。古代に描かれた壁画から印象派の絵画まで、自然をどれだけリアルに描くかを芸術家たちは追求してきました。


しかし、リアルに描こうとする中で芸術表現はさまざまなルールでがんじがらめになってしまいます。たとえば、遠近法を構図に取り入れることや自然に忠実に色を塗ることなど。。。


そして迎えた19世紀末。旧態依然とした芸術に対してうんざりした若いアーティストたちはついに自然を模倣することをやめました


自然を模倣する必要がないということは、今までのルールに従う必要が無くなります。その結果様々な表現スタイルが生まれていくことになります


今までのルールをいかに壊し何を表現するのか。それが20世紀の美術の課題でした。


ブレイクスルーの数々

まず、フォーヴィスムにより色彩のルールが壊されます。フォーヴィスムでは実際の色を完璧に無視して画家の主観的な選択で色を塗ります


色彩の次に形態の改革が起こります。キュビスムの画家たちは風景や人物をシンプルな形に分解し、同一画面上に様々な視点を取り入れます。これにより1つの視点から見た現実を描くという絵画の約束事は壊されました


また絵画では写真のように止められた静的な空間が描かれてきましたが、未来派は時間の概念を絵画上に持ち込み画面にダイナミズムをもたらしました


そして20世紀の美術はついに現実世界と隔離された抽象の世界に行き着きます。対象を再現することを放棄していった結果、線や色のバランスを追求することであったり、素材の味を引き出すことといった内面的な方向に芸術は突き進んでいきます


さらなるブレイクスルーはデュシャンの「泉」(1917)によってもたらされます。芸術家が選択することで単なる既製品も芸術たり得るという考えは、作品を創作するという芸術の前提の前提を打ち壊すものでした。作者は何も作らなくてよいわけです。


このようにアートはアート自体の定義を塗り替えながら20世紀に展開されていきます。つまり、100年前と現在のアートの定義は全く異なるということです。この後アートは歴史の中でどのような方向に進んで我々の時代のアートに行き着くのでしょうか。。。










絵画の中の恒久平和とモンドリアンの新造形主義



人生にはいろいろな対立があります。ネガティブとポジティブ、意識と無意識、精神と肉体、男性と女性、善と悪、光と闇。。。


対立はいつだって個の強調から生まれます。何かを個別のものとして定義することで、それとそれ以外に世界は分かれてしまいます。そのような分裂から異なるものが生まれていくのは避けられません。


国家もそのような分裂の結果形成されます。そして、国家同士の対立は戦争を生みました。1914年から1918年にかけて起こった第一次世界大戦では国家間の大きな対立構造の中で多くの人が亡くなることになります。


戦後の消耗しきった世界に対して、オランダの画家モンドリアン個の対立ではなく個の調和を強調する絵画を制作し、これからの社会が進むべき道を指し示そうとします。

どのようにして調和を生み出すか

モンドリアンは全てのものに共通する根源的なシステムを反映し、それゆえに個の対立を調和させる絵画を目指しました。


もう少しわかりやすく例えます。植物たちが住む世界がありました。そこでは花の国、野菜の国、果物の国が存在しており植物たちは植物界の覇権を巡って争っていました。


そんな状況の中、「俺達には全員根があって葉っぱがある。それに光合成だってできる。俺達は同じ植物じゃないか」と宣言する植物が表れます。


それがモンドリアンです。ただし、彼は絵画の世界でそのコンセプトを表現しようとしました。


絵画の世界で全てに共通するもの。それは色、形、線、空間などの基礎的な絵画的要素です。それらの組み合わせで絵画世界は作られているからです。


モンドリアンはそれらをもっと純粋な要素にまで突き詰めます。結果、垂直線と水平線、赤青黄の三原色といった要素が彼の絵では採用されます。彼の絵では、斜めの線や緑は一切使われません。


また、色が混ぜ合わされることもありません。純粋に赤は赤、青は青として絵画上で表現されます。なぜかと言うと、調和を作り出すためにはそれぞれの要素が独立した個である必要があるからです。


そのような限られた要素だけで描かれる彼の絵は完全なる抽象です。現実世界の何もモデルにしていません。線や色などの調和が彼の絵の主題です。そんな彼の絵画は新造形主義と呼ばれました。


上の「赤、青、黄のコンポジション」(1930)は彼の探求の結晶です。


ここで注目してもらいたいのが黒い線の太さです。微妙に違うのに気づきましたか?


人間の目は細いラインを素早く読み取ることができるが太いラインは遅くなる、とモンドリアンは考えました。この手法により絵画に動きを加え人生の連続性を表現しています


また、縦と横のラインは人生における二項対立を示しています。異なる要素である縦と横のラインが交わるところで新たな関係性が生まれ正方形や長方形などの面が形成されていきます。


モンドリアンは人生の本質をこのシンプルなイメージに詰め込もうとしたのです。




後に線や色などの要素間の調和を第一とする新造形主義の考えはデ・スティルという運動に引き継がれ、現代建築やデザインに展開されていきます。



これはデ・スティルのメンバー、ヘリット・リートフェルトによる「赤と青のいす」(1917)です。まるでモンドリアンの絵画が現実世界へ抜け出してきたかのような造形ですね。


ただモンドリアン自身はデ・スティルのリーダー、ドースブルフと対立してしまい1925年に脱退してしまいます。どうしても対角線は許せなかったんだとか。


完全なる調和は芸術の世界でしか実現されなかったのでしょうか。。。












ロシアの黒い正方形と社会主義的芸術


白い背景に黒い正方形。ロシアの芸術家マレーヴィッチによる「黒の方形」(1915)は絶対主義の代表的作品です。これが芸術!?と思うかもしれませんが、立派な芸術作品なのです。何がこの黒い正方形を芸術たらしめているのか…


舞台は社会主義の風が吹き荒れる1900年頭のロシア。絶対主義と構成主義を紹介します。

絶対的抽象=■

この作品は絶対主義の代表作ということなので、まず絶対主義について説明します。何が絶対なのか。それは抽象を極めたという意味での絶対です。


抽象芸術といえば前回、二次元上の音楽的表現を目指した抽象芸術を紹介しましたが、絶対主義では音楽的要素すらありません。というか対象がありません。しかし、何も指し示さない芸術なんてストーリーのない小説みたいなものです。一体どういうことなのでしょうか。


絶対主義では芸術作品それ自体の物理的性質に着目します。作品の色、トーン、重さ、材質、動き、空間、そして要素のバランスなど…先ほどストーリーの無い小説で例えましたが、その文脈で言いますと紙の材質や色、重さなどがその小説の主題です。


本を開いても白紙のページが続くだけ…何の説明もヒントもありません。それこそが最高の抽象であるというのが絶対主義です。自然の再現も理想化もしない、純粋な技術や素材への着目はアートの役割をひっくり返してしまうインパクトを持っていました


「黒の方形」に関して、マレーヴィッチはこう言います。「全ての視覚的ヒントを取り除くことで客観性が作品からなくなる。結果として、鑑賞者は純粋な感情を楽しむことができるのだ。」と。


彼は人びとに白いふちと黒い正方形の関係性を、絵の材質を、色の密度や重さを考えてもらうことを望んでいました

パワーバランスの変化

一方、そんな作成者の意図とは関係なしに、鑑賞者はこの作品について好き勝手言えます。なぜなら、絶対主義の絵に客観性はないからです。


たとえば、白いふちが生、黒い正方形は死を表している。生とは死のふちであり、絶えず我々は死のふちを綱渡りをしているのだ。的なw


でも、ただの黒い正方形やんけっていう解釈もできます。


「この黒い正方形の裏にはなにかとてつもない意味があるのではないだろうか…だって、美術館に飾ってあるんだし…でも、ただの正方形だよなぁ…」と鑑賞者は考えます。


アートはアーティストによって作られたゲームで、我々はそのゲームにチャレンジするプレイヤーという図式です。


芸術家は従来身の回りのものや空想の世界を二次元上に表現しようとしてきました。鑑賞者はどれだけリアルに見えるかで上手い下手を評価することができます。つまり鑑賞者が力を持っていました。


しかし、そのパワーバランスが絶対主義によって覆されたのです。ゲームマスターはもはやアーティストです。「この■には隠された意味、宇宙の真理があるのです。。。」


それでも、「芸術家には特別な才能がある」と人びとが信じないとただの四角やんで終わっちゃうんですが。

構成主義と実用性の追求

絶対主義の後、1917年あたりから1920年代にかけて同じくロシアで構成主義というものが生まれます。絶対主義は二次元の純粋芸術でしたが、構成主義は三次元空間に同様の概念を引き継ぎながらも芸術の実用性を重視して展開していきます


これはタトリンの「コーナーレリーフ」(1914-1915)です。構成主義ではその名の通り、工業用の金属板や針金などの素材を組み合わせ彫刻を作っていきます。


美術史上に現れた最初の純粋抽象彫刻とも言われるこの作品。今までの彫刻作品では空間と彫刻は別に捉えられていたのですが、部屋の角の空間自体も含めて作品としている点が画期的でした。


タトリンは虚像としての絵画空間ではなくて、現実の素材で現実の空間を作り上げる構成主義の方が優れていると考えました。


というのも当時の社会主義国家となったソビエトでは生産主義のもと、美術にも実用性が主張されて、芸術的な形と実用的な目的が一つとなった合目的な美術が求められ始めたからです。


そのような要請を受けて構成主義者たちは純粋美術を離れ、家具、食器、衣服、建築、ポスターなど実用的な分野に美術的表現を応用していきます


これは構成主義の芸術家、ロトチェンコによるおしゃぶりの広告です。幾何学的形態の組み合わせによる造形表現は絶対主義の流れを汲んでいます。


しかし1929年、スターリンの独裁が始まると、芸術団体は解散させられてしまい構成主義の運動は終わってしまいます。そして社会主義リアリズムへと移っていきます。。


以上、ロシアの芸術運動について解説してきました。社会主義の影響下のロシアということで、芸術運動も理想論的な傾向が強いですね。













曲線のアール・ヌーヴォーと直線のアール・デコ



今回は19世紀末から20世紀初頭にかけて流行った装飾美術に焦点を当てたいと思います。


装飾美術というのは器具や建造物など、実用品の装飾を目的とする美術のことです。いわゆる純粋美術とは区別されます。アートと言うよりデザインに近いです。


19世紀末にはアール・ヌーヴォー、20世紀初頭にはアール・デコという装飾美術の運動が西洋を中心に起こります。それぞれ特徴を見てみましょう!


自然の再発見、アール・ヌーヴォー



19世紀末に現れたアール・ヌーヴォーは「新しい芸術」を意味しています。基本手作りで一品ずつ熟練の技術で作られていきます。


特徴は有機的な曲線です。植物や昆虫などに見られる滑らかな曲線を職人たちは観察しデザインに取り入れていきました。優しくのびのびと流れていくようなフォルムは内向的で女性的なイメージを彷彿とさせます。


また、鉄やガラスといった当時の新素材が使われたことも特徴です。


自然の美を再発見し日常に取り入れるといったプロセスは、時を同じくしてヨーロッパにもたらされた日本美術や原始美術の影響を受けています。


自然をモチーフに洗練された美しいデザインが特徴のアール・ヌーヴォー。しかし、有機的な曲線は大量生産できずコスト高だったので、結果として一般庶民へはあまり普及しませんでした


そんなアール・ヌーヴォーの代表的画家といえば、そうみんな大好きミュシャです。彼は画家というよりもグラフィックデザイナーやイラストレイターといった方がより正確かもしれません。彼の描く美しい女性や曲線、優しい色使いが多くの人を今でも魅了しています。


「黄道十二宮」(1896-97)では植物や曲線といったアール・ヌーヴォーの要素がふんだんに盛り込まれています。ちなみに黄道十二宮というのは太陽の通り道である黄道を12等分して12星座がそれぞれ当てはめられた領域のことを言うそうですよ。

都市生活との調和、アール・デコ


一方、アール・デコは1910年頃表れた装飾美術の運動です。1925年のパリ博で人気を集め世界中でブームになり、アメリカで隆盛を極めます。


その特徴は幾何学的な固い曲線です。アール・ヌーヴォーとは逆にアール・デコではシャープでキレのある水平線や垂直線がデザインに多用されます。この幾何学的表現はキュビスムなどから影響を受けてたりします。


文明の急速な発展と共に自動車や工業製品などの台頭が近代都市生活を生み出します。そのような都市生活にマッチしたデザインがアール・デコだと言えます。


アール・デコの理想は「生活の中に芸術を」。幾何学的造形は安価での大量生産と洗練されたデザインの両立を達成するのにうってつけだったのです


ニューヨークのエンパイアステートビルなどはアール・デコの建築様式で作られました。


アール・ヌーヴォの代表的画家のミュシャを紹介したので、アール・デコの代表的画家も紹介します。


この絵はレンピッカによる「自画像」(1929)です。車に乗った女性はヘルメットと手袋を着けています。控えめな色使いと口紅の赤がコントラストを生みだしています。都会の生活を感じさせる絵ですね。彼女の自画像は自己主張をする自立した女性のリアルなイメージであると言われています。



アール・ヌーヴォとアール・デコ、正反対の美術運動でありながらそれぞれ独自の魅力を持っています。アール・ヌーヴォ調の家具やアール・デコ調の家具で部屋をコーディネートしてみるのもおもしろいかもしれません。






色彩による二次元のオーケストラとその作曲家たち



近代アートの歴史上、絵画は視覚表現の追求とともに現実から遠ざかっていきました。フォーヴィスムにより色の、キュビスムにより形の自由革命がもたらされます。結果として行き着いた先は現実を「再現しない芸術」抽象芸術でした


抽象芸術は現実を模倣する、たとえば肖像画のようなアートではありません。むしろ音楽に近い性質を持ったアートだと言えます。なぜなら、音楽もまた現実を「再現しない芸術」だからです。


ということで今回は抽象芸術を音楽という側面から見ていこうと思います。

音楽=抽象芸術

音楽が現実を再現しないということについてもう少し詳しくお話します。


音楽は非常に抽象的な芸術の形です。なぜなら、直接的に物事を指し示すことができないからです。もちろん、くじらの鳴き声などの自然音を音楽の中にアクセントとして使うことはあるんですが、本質的に音楽はメロディーで絶望や希望といった抽象的概念を表現します


バイオリンの旋律やドラムの振動は互いにハーモニーを生み出し、聞くものの想像力に訴えかけます。たとえば、「海」という題名の曲は海のイメージを頭のなかに呼び起こすかもしれませんが、絵画のように海のイメージを直接目に見せることはできません

音楽的絵画、オルフィスム

そのような音楽の抽象的表現を絵画上で行おうとしたのがオルフィスムの画家たちでした。オルフィスムの名前の由来は竪琴の天才、オルフェウスというギリシア神話の英雄です。


オルフィスムは非再現的な色彩と非具象的な形による音楽的表現が特徴的です。また、キュビスムの発展形として語られることもあるのですが、あくまでキュビスムは形のあるものを描いた具象絵画であったのに対して、オルフィスムは形のない音楽や色を主役として扱うのでキュビスムとは一線を画しました


彼らは音符の変わりに色と形で作曲し、抽象的概念を頭の中に呼び起こします


この絵はオルフィスムの画家、クプカによる「ノクターン」(1911)です。ピアノの鍵盤とその音が発想源となっています。色とりどりの長方形が音楽的リズムを作り出しています。


音楽的抽象絵画の集大成

そのような絵画上での音楽的表現をさらに推し進めていったのがカンディンスキークレーでした。彼らは抽象絵画の元祖的存在ですが、それぞれ独自のスタイルを発展させていきます。


カンディンスキーは色には音があると言います。色の組み合わせは和音や不協和音を生みます。


彼のComposition VII (1913)では形は完璧に抽象化されており、色が和音や不協和音を作り出して、ハーモニーやアクセントを生み出しています。


彼は色の音を聞くためには絵画から意味を排除しなければならないと考えました。なぜなら人は無意識のうちにイメージの中から意味を読み解こうとしてしまい色に目を向けなくなってしまうからです。


カンディンスキーこう考えました。色は魂に直接影響を与える力を持っている。色はキーボードで目はハンマー、魂はたくさんの弦でアーティストはピアニスト。アーティストはキーを叩くことで魂に振動を起こす、と。


カンディンスキーの絵が完全なる抽象表現だとしたら、クレーは具象画と抽象画を組み合わせたような表現をしました。


「セネシオ」(1922)では人の顔に抽象的パターンが描かれています。クレーは、芸術とは「目に見えるものを映し出すのではなく、目に見えないものを見えるようにする」ことと定義し、外観の向こう側の目に見えないリアリティを表現しました。



以上、絵画上での音楽的表現を追求していった画家たちを紹介してきました。彼らの絵を鑑賞するときは何か意味のあるものを探して何も見つかりません。それよりも、ただ色や形の組み合わせを観察して、浮かんでくるイメージや感覚に気持ちを傾けてみてください。色の音が聞こえてくるかもしれません。












機械文明の礼賛、未来派とダイナミズム



キュビスムと時を同じくして、未来派という絵画運動がイタリアで誕生しました。


イタリアの詩人マリネッティが未来派宣言というものを当時のフランス有名新聞、ル・フィガロ誌に出したことがきっかけとなります。


未来派宣言の内容は、伝統により創造性が押し殺されているから伝統を壊していこうという過激なものでした。また、機械文明のダイナミズムとスピード感を賛美する内容でもありました

未来派のアーティストたち

その未来派宣言に呼応して、未来派のアーティストたちが次々と作品を制作していきます。


未来派の条件としては近代文明のダイナミズムを描いていること。彼らの絵画は時間の連続性を強調しました。


たとえば、バッラによる「鎖につながれた犬のダイナミズム」(1912)。ワンちゃんの足がずわーーーーって動いています。漫画みたいな動きの表現ですね。



また、ボッチョーニによる「空間の連続における唯一の形態」(1913)では機械文明のスピードや進歩がサイボーグの彫刻により表現されています。形を変えながらも前へと前進していく力強さが感じられます。


このように、未来派の芸術家たちは動きをパックして一つの空間に表現しようとしました。キュビスムの画家たちが視点を切り貼りしたように、彼らは時間を切り貼りしたのです。実際二つの絵画運動は互いに影響し合いながら発展していきます。

機械と人間

ここで、未来派をよく象徴していると思われる絵画を紹介します。ボッチョーニによる State of Mind: Those Who Go, The Farewells, and Those Who Stay (1911)の3部作です。全体的にキュビスムの影響が見られるこの作品。彼は機械が人間に与える心理的影響を描こうとしました。それぞれ見て行きましょう。


これはThose Who Go では、汽車で旅にでようとしている人びとが描かれています。乗客は機械文明の象徴である汽車に不安、苦悩、戸惑い、寂しさといった感情を持ちながらも今まさに乗り込もうとしています


The Farewells では汽車の中から手を降る乗客とそれを見送る人びとが描かれています。ここでの主役はスチームエンジンの荒々しい力。人びとはエンジンの煙に囲まれながら別れを惜しみます。機械により止まること無く変化し続ける世界こそ彼が描いた未来でした。


そして最後のThose Who Stay では残されたものたちの哀愁が描かれています。今までの絵とは異なりほとんど色がありません。幽霊のように描かれた人びとは肩を落として駅からの帰途についています。彼らの愛すべき人びとは汽車に乗り遥か遠い未来へ去って行きました。彼らは雨に打たれながら惨めな過去に帰っていきます。


この3部作は100年後の現代においても共感できるストーリーを語ります。未来派から100年、テクノロジーの進化は止まらず、我々に変化の中で生きることを強います。これからどのような未来がぼくらを待っているのか。ぼくらもまた不安を抱え汽車に乗り込む旅人なのかもしれません。







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